すばらしき世界、誰の上にも同じ青空は広がっているのか。
西川美和監督の脚本・映画がずっと好きで今回の「すばらしき世界」も楽しみにしていた。
人間のどうしようもなさ、ダメな部分、そこに人間らしさが濃縮されている気がして、私には西川監督の作品がとても魅力的に映る。
美しくて正しい部分が人間らしさでは本来ないと思っているからだ。
今回の映画は表面的に言えば地味目な映画だった。登場人物も絞られているし、そのどれもが味わい深くはあるが地味な人だ。(唯一、長澤まさみのノースリーブタートルの胸は派手だったけど)主人公三上には刺青が入って「そっち」の人間だがいかにも外国人が好きそうな派手な和彫ではない。ヤクザといえば「ヤクザと家族」がベタなザ・ヤクザであるとしたらこっちは少しリアルで寂しくて端っこだ。刀も乱闘も抗争も銃も出てこない。三上が頼って会いに行った九州の親分は糖尿病で片足を無くし、もと組員は庭師をして寂しげな背中を丸めていた。
カッとなったら手が付けられない三上は社会から見ればはみ出し者で身勝手で粗暴、だけど弱い物イジメをほっとけないという映画の時のジャイアンばりの真っ直ぐな心を持っていたりする。部屋を整理整頓して正座して卵かけご飯をかき込み、スーパーでキャベツを選び、一生懸命教習所で運転する姿はどこかコミカルで可愛いおじさんにすら見えてしまい胸がキュンとする。
観ていると「殺人犯なんて理解できないキチガイ」から「この人めちゃくちゃ不器用で人間らしいかも」に変わっていく。
自分を養護施設に預けた母親を探す姿は、三上の胸の内の少年のような純粋な気持ちを垣間見さえさせてくれる。
だけど「社会」や「世間」は三上に居場所をなかなか作らない。
ヤクザの親分の元を去る時におかみさんに言われる「外の世界は生き辛か。ばってん、シャバの空は広いって言うけん」(台詞うろ覚えだけど)まさにその台詞はラストに向かうストーリーへと繋がっていくのだが、社会とは世間とはルールとは、誰にも差別なく平等にあるのかというと現実にはそうではない。誰もが自分思っていることや考えを他人に当たり障りなくスラスラ言えたり、カッとなっても論理的に相手と喧嘩できたり、両親が揃ってちゃんと収入があって周りにも恵まれた家庭に生まれるわけではない。しかし、その世間のルールを作るのは大抵「平均以上に恵まれた人」たちだと常々思う。国会で論じ合う人の大半は上の上の恵まれた層の人達だ。だから彼らの「普通」は決して庶民の普通ではなかったりする。三上のような生まれ持った立場や性格の人間にこの社会は生きやすいのだろうか、いや三上だけではなく多くの人にとって。
最近SNSで正論を振りかざして事件や物事の一面を見て叩く一般の人も多く見る。彼らもまた息苦しさを抱えて、その吐き出し口を自分よりも下と見える人に向かって吐き出しているように見える。電車に乗ると誰も窓の外の青空を見ずにスマホに熱中している。もはや「空が広い」ことすら忘れてしまったかのようだ。ネットの世界は無限に広がり可能性の空間に思えるけど、実はめちゃくちゃ狭い世界なじゃないかなと、スマホの時間を最近減らしているので思う。
話が逸れてしまったけど、ラストに空に浮かぶメインタイトルは秀逸だった。監督のオリジナル脚本で渋い役者で商業映画というのは昨今本当に少なくなってしまった。キャスティングと話していると打ち合わせの現場では「1歳でも若い人を探して欲しい」と言われるらしい。そんな中で西川監督のこの映画はとても貴重だと思う。監督の「人を見つめる眼差し」が映し出されるのがオリジナル脚本の映画の醍醐味だ。