枯れないおくりもの。
「あ、これ贈ろうかな。」
最後にそう思ったのは、いつだろう。
誕生日?記念日?
それとも母の日?バレンタイン?
桜がまだ蕾の3月。
新学期や新生活のお祝いに、春の贈り物を考えている人もいるかもしれない。
コロナが明けて3年ぶりに行った旅先で、
たんまりと買いすぎたのであろうお土産を見るのももはや、懐かしい。
空港帰りの電車はいつも人とお土産で満員だ。
贈り物は、贈る方も受け取る方も幸せになるし、それがずっと続くから好きだ。
何が嬉しいかな、似合うかななんて勝手に妄想する時間は
いったい無料でいいのかなと思うぐらいにワクワクするし、
誕生日にサプライズで届いたプレゼントを受け取ったときのドキドキ感もたまらない。
優しさは、もらう数秒前から始まっている
ってよく言うけれど、
贈り物をされたときにはもらった物そのものの喜び以上に、相手が過ごしたであろう過程を愛おしく思う。
何がいいかな、と迷ったり、選んだり、また迷ったり、
その時間が愛おしくてたまらない。あの感覚にぜひとも名前つけたい。
花束を抱えて歩いている人や、
ケーキを嬉しそうに買ってる人を見ると
きっと誰かの笑顔を想像して贈ろうとしているのだろう。
その優しさがスケスケに見えてしまって
ついニヤついてしまう自分がいる。
思い出は、財産
私の母は、あまりブランド物に興味がなくて
とにかくモノより「コト」を大事にする母だった。
そんな母のもとで育ったもんだから
COACHの価値も、CHANELの読み方もわからず大人になった。
目に見えないものの方が価値がある、誕生日や記念日には「物」より「思い出」が嬉しい。
そんな価値観を持っている私は、やっぱり母の娘だなあと思う。
わたしの母は地元山形でひとり子供服のセレクトショップを経営している。
強くてやさしくて面白い、自慢の美魔女だ。
そんな母は小さい頃から、「思い出は財産。」と本当にいろいろなところに連れてってくれた。
物をプレゼントしてもらうより、旅やおでかけの記憶の方が人はずっと残るから。
そんな理由からだったらしい。
旅での記憶は何回でも思い出して幸せになれるし、
旅行中に見た景色や嗅いだ匂い、感動した体験や忘れられない味は唯一無二だから、やめられない。
私が、今の空を飛ぶ仕事を夢見たきっかけも、バリバリ旅好きな母の影響だ。
好奇心旺盛の母のもとで暮らしたのは、高校生までだった。
大学生からは東京に出てきて、一人暮らしを始めた。
お金をアルバイトで稼げるようになった私は、
母の日が近づくと、決まって母娘旅をした。
カーネーションではなく、決して枯れない「旅行のおもひで」をプレゼントするのだ。
日々山形の子供服屋さんで働く母にとっての非現実的ご褒美は「海とビール」。
彼女はそれさえあれば、幸せらしい。
だから私と母は、よく海のある場所へと旅をした。
彼氏や友達と旅行するのはよく聞くが、大学生の頃母と旅をする人はあまり周りにいなかった。
母の日が近づくちょっと前には、「旅行するならどこがいい?」とさりげなく電話で聞きながら
プランを組んでは勝手に幸せになっていた。
旅行当日は思いっきり楽しむ、食べる、写真を撮る。母は昼からビールを飲む。そして幸せになる。
旅行後にも、2人で行った場所がTVで紹介されたりすると、
そのテレビごと携帯で映し出した動画とたまらなく嬉しそうな母のLINEがセットで届いて幸せになる。
「ここ行ったよね〜!」そんな報告を嬉しそうにしてくれる母が、好きだった。
旅行前も旅行中も旅行後も、幸せになれる旅はやっぱりすごいなと思う。幸せ効果長い、長すぎる。
そしてこれは死ぬまできっと忘れない記憶。
「贈り物は、モノより思い出を。」
私もいつか子供ができたらそんなことを教えるんだろう。
東京と山形、新幹線で3時間のその距離は
近いようでやっぱり遠かった。
だから余計に旅行中は、お互い離れていた時間を埋めるように
溜まっていた最近の話や、オーディション番組の推しの話、家族の近況の話、
恋バナや将来の相談や最近思っていることの話をしたりする。
そんな話を当たり前に隣でできる、そんな時間が嬉しかった。
美味しいご飯や綺麗な景色、冷たいビールに感動する母の笑顔を見て、思わず何回も泣きそうになったことがある。
こんな時間がずっと続けばいいのに、そんなことを毎回本気で思っていた気がする。
母の笑顔が消えた2月
去年の2月、私たち佐藤家の大切な家族が1人、いなくなってしまった。
14歳のチワワ(りんご)が虹の橋を渡ってしまったのだ。
そこから、母はあまり笑わなくなった。
誰よりポジティブだった母が、1人で泣いてしまう夜が増えた。
あんなにちっこいチワワ1匹の存在がどれだけ自分たちにとって大きかったのか、思い知らされた。正真正銘の、家族だった。
覚悟はしていたものの、いつか来るこのお別れがこんなにもきついものだとは誰も思わなかった。
想像以上の辛さだったけれど、中でも365日一緒にいた母の辛さは計り知れないものだなと想像した。
私たち姉妹、父にとっての山形は帰る場所だけれど、母にとっての山形は「毎日を生きる場所。」
母の仕事の帰りを待つりんごはもういないし、エアコンやテレビをつけっぱなしにして家を出る必要も無くなった。
どこの場所にも思い出が染み付いているから何回も、何回でも、思い出したと思う。
そんな母が心配でそばにいたいのになかなか山形に帰れず、近くにいれない日々がもどかしかった。
りんごは、ママが1番好きだった。
4月の花見も夏の花火も蔵王の紅葉も冬のこたつもすべて一緒に過ごしたりんごと母の思い出は、
家族LINEにたくさん残っている。
そしてそれを保存してニヤついていた私のカメラフォルダが自慢げに幸せを物語っている。
「気分転換に旅に出よう。」
そんなことを母に伝えても「今はそんな気分になれない、ごめんね。」
悲しい気持ちに整理がつかない母には、なかなか応じてもらえなかった。
たくさん、咲きますように。
あれから1年が経った。
母は前より、笑うことが多くなった。
今でもりんごの話をすると、ぼろぼろと泣いてしまうけど
泣くほど愛されたりんごは本当に幸せだったんだと思う。
周りの友人やお客さん、家族、みんなが母を心配するその優しさが
少しでも母の活力になれていれば嬉しい。
母の少し悲しそうな笑顔も、今はすごく綺麗だなと思える。
悲しい思い出は、無理に忘れなくていいし
むしろずっと覚えてればいいとさえ思う。
楽しいことだけじゃない人生だけど、
きっと、悲しいことだけでもない。
山形に帰省するたびに
妹はりんごに季節の花を買って帰る。
ずっと忘れない、そんな気持ちが届くように。
仕事で海外に行くたびに
私は家族にお土産をたんまり買って帰る。
少しでも母が、旅気分を味わえるように。
単身赴任の父は、久しぶりに会うたびに
大好物の高い馬刺しを買ってくる。
母が少しでも、元気になるように。
「りんがいる天国に早く行きたい」
そんなことを言っていた母が、少しでも元気で、幸せで、「もっと生きたい」
そう心から思えるように家族がいるんだと思う。
ちゃんと支えるから、大丈夫。
今年の母の日は、海を見ながら乾杯なんかして、りんごの可愛かった話をうんとする日にしよう。
大好きな母の笑顔が、たくさん咲きますように。