あたたかなお湯を他人にそそぐ。
我が家には子どもがまだいない。
が、昨夜、妻と「子育て」について話した。どんな子どもに育ってほしい? という会話。今日の「あとがき」にオチを書く。
思うに、
自分の中に言葉を持って生きているか否かで、社会での立ち居振る舞いや、誰かとの関わり方は少しだけ変わる気がする。少しだけ。
要は、自分の中に自分だけの言葉、テーマがあるだけで、生き方が変わる気がするのだ。
今記事のタイトルである、
あたたかなお湯を他人にそそぐ。
これは、私が10代後半のとき、言葉遊びをするように自分で決めたような。いや、誰かが言ってたような。はて、どこかで見たのか。忘れた。
反感を持たれるかもしれないが、正直言うと、生まれてこの方、生きづらさを感じたことがない。私だって苦労、挫折はたぶんしてるけど、それに気づいてない。幸せな人たちに囲まれて、ぽわぽわ生きてきたからだ。だからきっと、私に深みはない。
【関連】苦労と挫折をしてるようでしてない人生
出会う人と環境が、自分を作る。
私自身はカスだけど、私を取り巻く友人たちは、本当にあたたかく、素晴らしい人たちだらけ。noteで出会った人たちのことも、私は友だちだと信じて疑わない。
…
もし、私が液体容器だとしたら、そういうあたたかな人たちのお湯が、私の中に流れ込んできて、冷たくトガった私をあたたかく、カラフルに、まあるくしてくれる。
逆説を唱える人がいる。
そうかもしれないねぇ。
…いや、そうか?
「他人に期待していない」ということと、
「冷たい」はイコール関係で結ばれるのか?
はて、どうだろうね。
エネルギーをもっとやわらかく、あたたかく、カラフルなものに変換して、どこかにそそぐ装置みたいな人間でありたい。
それが人間関係のいいところ。
だから、
もし、私が冷たく、どす黒くなったときは、どうか皆さん、あたたかくカラフルなお湯をそそいで、私のことをあたためてほしい。
それで私があたたかくなったなら、それを必要とする冷たい人にまたそそいで、あったかいパステル色にしてあげたいから、みんなもきっと、誰かにそうしてあげてちょんまげ。
この考えが全ての真理ではないと思うけど、
こういうことを、我が子と一緒に学びたい。
▶︎この考えは私の中から生まれたものではない
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