映画『杳かなる』によせて
生きているとは、生きるとは、何か。
ドキュメンタリー映画『杳かなる』(監督:宍戸大祐)を観る人はこの問いに応えるために、自分の生存の在り処を各々にスクリーンへ投影する。それゆえ映画の感想や解釈は限りなく広くなるだろう。
ALSという難病によって身体の神経を徐々に奪われ、今日できたことが明日できなくなるという恐怖と絶望に囲まれている状況に言葉を失う。見えていたものが見えなくなる、歩けたのに歩けなくなる、表情や言葉で表現できたことができなくなる…。それは「できる」ことの喪失感である。映画に登場する佐藤裕美さん、岡部宏生さんや橋本操さんは発病前から仕事もプライベートもアクティブに行動し、ご自身の考えや生き方を活発に表現し、コミュニケーション能力も普通以上にある方々である。(例えば裕美さんの自宅のシーンでも壁一面のホワイトボードが何度も映り込んでいて、活発にコミュニケーションをしている日常であることが伝わってくる。)それぞれ状況は異なりながらも、病気の進行に抗いながらも様々な手段で意思を伝え、周りの人々との関わりを諦めない姿がていねいに描かれている。しかしこの映画が伝えているのは「人との関わりとコミュニケーションは生きる証であり、不可欠なものである」ことだけではない。
何らかの原因で、意識は正常のままコミュニケーションを失うこととなってしまった時、「自分の存在は死と等しくなってしまうのだろうか」、あるいは「自分を表現することができないことは世の中では存在しないことになってしまうのだろうか」という厳しい問いがその人に突きつけられる。だがこの問いとは、無意識に私たちが社会から強いられている生存の条件の裏返しではないか。医療技術の発達以上に、この社会の中で本当に求められるのは「沈黙と闇にむける耳と眼差し」なのではないだろうか。
例えば我が国では古くから神のような人知を超えた存在を分かりやすい文字や形にすることを忌避してきた。それは畏れであり、描き表すことが本来の霊的な存在を変質させてしまうからだが、その沈黙の宇宙に広がる豊穣さを知っていたからだろう。現代の私たちは情報を送受信し、コミュニケーションが成立することが生存の証と錯覚させられている。もしこの日常が世界のすべてであるならば、遠くのガザやウクライナの戦場で生死の境を無言で彷徨う無数の子どもや兵士たちは存在しないことになってしまうのだろうか。
この映画は、尊厳死に拙速に傾く社会の風潮に抗い、表現と行動を続ける裕美さんのポジティブな姿で幕を閉じる。深刻な難病と戦いながら行動する出演者の姿は本当に希望の星であり道しるべとなるだろう。一方でその姿はその他の大勢の無言の患者や家族の存在も浮き上がらせる。それゆえに進行が進みTLS(完全閉じ込め状態)となった加藤真弓さんの人口呼吸器の音がその闇からのシグナルとして耳に残った。映画のタイトルである『杳かなる』の「杳」が地面の下に隠れた太陽の象形文字であるように、見えないもの、隠れてしまったものの存在を感じさせる。
TLSの患者はどのような状態であるか。ALS協会理事の川口有美子はその著書『逝かない身体:ALS的日常を生きる』の中で書いている。
“TLSでは聴覚や意識、思考力はあるのだが目も開けられず、暗闇の中で完全に閉じ込められた状態であるが、何も出来ない状態ではなく、TLSの患者さんは「他者への信頼に身を投げ出すことができる」のである。”
この一文に触れて、パフォーマンスグループのダムタイプが90年代にAIDSをテーマに発表した舞台『S/N』の終盤の台詞を思い出した。
“あなたが何を言っているのかわからない。でもあなたが何を言いたいのかわかる。”
“私はあなたの愛に依存しない。あなたとの愛を発明するのだ”
“あなたの目にかなう抽象的な存在にしないで。私たちをつなぎ合わせるイマジネーションをちょうだい。私の体の中を流れるノイズ…読解されないままのものたち。今まであなたが発する音声によって課された私のノイズ。今、やっと開放します。”
私たちには無意識に他者を客体化し、意味を付け、抽象化した存在にしてしまう習性がある。それは世の中のコード(常識)に合わせるための規律であり、シグナルの暴力となって私たちのイマジネーションを奪っている。しかし病によって表現が失われた結果のその先に、意味から解放された存在として関係を発明し、結び直せる可能性を川口は書いている。それは社会が求める既成の関係ではない新しい友情の形なのだ。
『杳かなる』の終盤では、三陸の人々の前で宏生さんが裕美さんに「ALSの団体を引き継いでほしい。一緒に生きてください」と告白するシーンがある。それは同じ病を持つ同士としてだけではなく、家族や男女などの世間の関係を超えた新しい友情の形と、生存の手がかりが生まれた瞬間であった。
哲学者ミシェル・フーコーは既存の制度に反する新しい関係の存在について、著作『同性愛と生存の美学』で次のように述べている。
“同性愛という問題の数々の展開が向かうのは友情という問題なのです。”
“僕らは、いまだに形を持たぬ関係を、AからZまで発明しなくてはなりません。そしてその関係は友情なのです。”
“こうしたことが同性愛を「(人々を)当惑させるもの」にしているのだと思います。性行為そのものよりも(略)個々の人間が愛し始めること、それが問題なのです。制度は虚を突かれてしまいます。”
映画『杳かなる』は難病に関する啓蒙活動の映画の枠に留めてはいけない。人は(=わたしは)他者への信頼にその生存を委ねてすべてを投げ出せるのだろうかという問いは、現代のすべての人にとって根源的で普遍的なテーマであり、新しい友情と愛の形は社会の根底を揺るがす可能性があることが秘められている。
夜空を見上げると人は宇宙のはるかな広がりと自分の確かな生を感じる。そのような時間をこの映画は観る人に与えてくれるだろう。