シッソウカノジョ 第十一話
情け容赦なく朝はきた。昨日、ぼくが吐いた呪いの言葉はなんの効力もなく、今日もこの星は回り続けている。朝日はまぶしく、世界は昨日と何も変わらなかった。
昨夜、完全に沈黙するパソコンを前に、ぼくは結局なにもできずに、ベッドにもぐりこむとそのまま眠ってしまった。目覚めてもまだ、なにをする気力もなかった。それでも腹だけは減っていた。ふらふらと起き上がり、キッチンに行く。テーブルの上にあった干からびたフランスパンのかけらを冷たい牛乳にひたして立ったまま食べた。なんの味もしなかったが機械的に飲み込んだ。食べ終わる頃、ぼくは決心を固めていた。リビングでは、シマシマがソファの上で白い腹を見せて、だらしなく寝そべっている。まぶしげに前足を顔の上にちょんとのせる仕種がひどく人間くさい。
「いつまで寝てるんだ」と、すごんでみせた。
シマシマは少しだけ目だけをあけてこちらを見たが、すぐにまたゆっくりと目をとじた。ふてぶてしいったらありゃしない。ぼくは眠っている猫に近寄り、その巨体を抱え上げた。両足とシッポをだらりと垂らし、無抵抗だった。これで最後だ。 ぼくは猫を両手に抱え、足早に部屋を横切ると、庭に面した扉を足で開け、力まかせに猫を放り出した。シマシマは思いのほかきれいな放物線を描き、その短く太い四本の足で庭の草の上に着地した。だがすぐにくるりとこちらに向きを変え、再び部屋に入ろうと駆けてくる。そうはさせまいと、ぼくは猫の鼻先で扉をしめた。シマシマは前足で扉をひっかき、胸が痛くなるような切ない声で「ここを開けて」と鳴く。ぼくはあとも見ずに二階に駆け上がった。
とにかく編集の人に事情を説明して、原稿の締め切りを延ばしてもらえるよう頼まなくてはいけない。クライアントだけでなく、デザイナーや印刷会社の人にも迷惑をかけることになる。締め切りまで十分時間があったのに、ぎりぎりまで手をつけなかったのはぼくの責任だ。編集の人は二度と仕事をまわしてくれないかもしれない。数少ない得意先を失うのかと思うと、心が鉛をくらったように重くなり、ついベッドにもぐりこんでしまっていた。そして頭から毛布をすっぽりとかぶると、貝のようにぴっちり閉じた。静かで温かくて安全な世界だ。少しだけ静かに身体を横たえ、それから勇気を出して電話をしよう。そう自分に言い訳をしながら目をつぶった。
だが一分もしないうちに玄関から聞こえるせわしないチャイムの音で現実に引きも出された。このまま居留守を決め込もうかと考えるぼくの心を見透かしたようにチャイムはより攻撃的になった。のろのろとベッドから起きだし、玄関に出た。ドアを開けて、危うく悲鳴をあげそうになった。町内で一番苦手とする、町内会長さんが立っていたのだ。長年男子校で校長をしていたという会長さんは、齢八十を超えたいまも矍鑠として、朝はゴミ捨て場を掃除しながら、大きな声でみんなにあいさつをするのが習慣だった。
「まったく、どういうことですか!」
会長さんはなんの前置きもなしに怒鳴りだした。ぼくは震え上がり、会長さんの鼻先でドアをぴしゃりと閉めそうになったが、なんとかこらえた。しかも驚いたことに、会長さんはその腕に見慣れたものを抱えてる。間違いなくシマシマだ。
神妙な顔をしたシマシマは前足で会長さんの腕につかまり、後足とシッポはだらんと垂らしてこちらを見ている。ぼくは必死で猫から視線をひきはがして、会長さんを見た。
「ど、ど、どんなごごご用はなんなんですか?!」
「困るんです」と、大声で会長さんは言った。「猫を外に出さないようにしてもらわないと」
悪さをみつかった生徒のように、ぼくはただもう首をうなだれていることしかできなかった。本当なら「あなたが抱いている猫は、うちとは何の関係もありません」と、きっぱりと言いたかったけれど、できなかった。
会長さんはさらに続けた。「わたしたちの住む町をいかに快適にするか。その最大の問題は猫! 猫なんです。私はね、野良猫をむやみに増やしたくないんです。あなたは猫が増えるとどうなるか、考えたことがありますか」
ぼくは言葉もなく、顔をふるふると左右に小さく震わせた。
「ご承知のように猫はゴミ袋とみれば、親の敵のように破ってなかみをだします。住民が丹精した花壇や植栽にも平気でフンをする。さらに夜な夜な暴れまわる。サカリがつくわけです。その結果、野良猫が町にあふれかえるのです。そうなると、お互いが縄張りを主張してケンカがおこり、そのケガから病気を感染し、この町の猫に病気が蔓延することになるのです。ここまで、おわかりですか?」
糸で操られた人形のように、ぼくは首をガクガクと縦にふることしかできない。
「恐ろしいことだと思いませんか」
再び首をガクガクさせる。
「さてそこで、先ほども申しましたように、私は町内会長として、このご町内に責任があるのです。と同時に、住人であり飼い主であるあなたにも責任があります。つまり、この町で猫を飼うからには、責任と自覚をもっていただかなくては困るのです」
「責任と自覚……」と小さく呟いてみた。
「当然です!」会長さんはクワッと目をみひらき、つばを飛ばしまくり、さらに大きな声で言った。「いまどき、猫を勝手気ままに外に出して飼うなんて非常識です。飼い主の責任と自覚に欠けているからそんなことになるのです。あなたは飼い主として完全に失格です」と、ぼくの鼻先に指を突きたてる。
ぼくは震え上がった。
「ひと昔前ならいざ知らず、今の時代、猫を外に出すなんて非常識にもほどがあります」
自分の言葉にだんだん興奮してきたのか、会長さんの顔色は次第にどす黒くなり、血管の一本や二本ぐらい切れるんじゃないかと心配になるほどだった。
「私はね、このこが道路に飛び出してくるのを見たんですよ。その鼻先を一台の車が猛スピードで走っていったのを見たときは、あまりの恐ろしさに、この年寄りの心臓が止まるかと思いました。なにしろ相手は鉄の固まり。一方、このこたちは柔らかくて、ふわふわの柔かな毛皮しか着ていないんですよ。もう矢も楯もたまらずにね、抱き上げて、こうして連れてきたというわけなんです。このこにもしものことがあったあらと思うだけで私は」ぶるっと身を震わせ、猫をしっかりと胸に抱きしめて語りかける。「外は危ないんですよ」
はじめて見る会長さんのその表情を、ぼくはただ身を固くしてみつめていた。
「私はね、そんな恐ろしいことが怒らないようにと、少なくとも私の住むこの町では、そんな悲しい目に会うこたちを増やさないように、これまで努力に努力を重ねてきました。しかし、そんな私の努力を嘲笑うかのように、集収日の前夜から生ゴミを出す人や、可愛いからといって無責任にエサを与える人が絶えることがありません。無責任なその場限りの猫かわいがりこそが不幸な猫を増やすことになるのです。このこたちも私たちも同じ命。老いたりといえども、私は生きものを愛し、緑を育て、日々を精一杯生きているというのに、私のこのささやかな努力は、ご町内はもちろん、家族にさえも理解されず、ご近所からは『小うるさいジジイ』と言われ、息子の嫁からは『人に難癖をつけるしか能がない』と陰口を叩かれ、私のこの努力は一体なんの……なんのために……」その先は、涙で聞き取れかなった。
猫に頬を寄せて、涙にくれる会長さんを前にして、「こいつはうちの猫じゃないんです」なんていっても、単なる言い逃れととられて、会長さんの怒りにさらに油を注ぐことになるだろう。どうしたものかと、涙にくれる会長さんの顔を無言で覗き込むと、会長さんが涙と鼻水と猫の毛にまみれた顔をあげた。そして、ぼくの胸に猫をギュッと押しつけると、ふりかえりもせずに自宅とは反対の方へと走っていってしまった。
会長さんの背中を見送りながら、これで完全にだめだ、とぼくは思った。これじゃあ、こいつをうちの猫と認めたことになる。あの会長さんのことだ、もしもこの猫が車にはねられたところでも目撃しようものなら、無自覚、無責任な猫の飼い主失格の大バカ者として、この先ずっと、あの恐ろしい顔で睨みつけられ続けるに違いない。ぼくはこの家で透子の帰りを待たなくちゃいけないんだ。そのためにも、周囲との摩擦は出来る限り避けたい。猫を腕に抱えたまま、ぼくは途方に暮れた。だが、そんなぼくのことなんてお構いなしに、猫はいつものようになにを考えているのかわからないガラス玉の瞳でぼくを見上げ、自分の鼻の頭をペロリとなめる。
その夜、ソファに長々と寝そべる猫を見ながら考えた。考えに考えた末、最後の手段に訴えることに決めた。本当はそんなことしたくない。ぼくは極悪非道な人間ってわけじゃない。むしろ自他ともに認める意気地なしの根性なしだ。だがもう限界。これ以上、会長さんに怒鳴られるのはご免だ。意気地なしの根性なしだからこそ、ぼくは人から怒られるのがなによりいやだ。だが、透子の帰りを待つためには仕方ない。そう自分に言い聞かせて、さっそく準備にかかった。周到に殺人を企てる犯人のように。
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