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ソッソウカノジョ 第二十話

 透子が姿を消したことは、事件でも事故でもないことはわかった。でも、それがぼくにとって救いになったかといえば、むしろ逆だ。なぜ透子は、この街を離れて、どこか遠くへ行かないんだ。どこかよそで新しい男と二人、なにもかもやり直せばいいことじゃないか。障害になるようなものは、なにもないはずだ。ますます透子の考えていることがわからなかった。重苦しい気持ちで、カフェオレにひたしたパンを朝食代わりに胃に詰め込んでいると、電話が鳴った。
 どうしてぼくには透子のことをゆっくりと考えるひまもないんだ、と腹が立つ。電話をとると、「この度、春のキャンペーンで……」と、相手を全く無視したセールストークがはじまった。うんざりだ。それでも努めて感情を出さずに、「今は手が離せないので結構です」というと、「この機会にご契約いただくと、今よりずっと電話代がお安くなります」と、ひるむ様子がない。「大丈夫です」と、さらに拒否するが、「どうしてですか? すごくお安くなるんですよ。後できっと後悔することになります」と、自信たっぷりだ。「大丈夫です」「どうしてですか?」の押し問答が続く。ぼくは、だんだん相手をする気力もなくなってきた。大きく息を吸うと、「頼むから放っておいてくれ。高い金払うのはおれの勝手だ」と、怒鳴りつけ、力いっぱい電話を叩きつけた。もっと早くこうすべきだったのかもしれない。
 ぼくはテーブルに戻ったが、もう何かを食べる気分ではなかった。カップの中身を流しに捨てて洗い物をしていると、また玄関でチャイムが鳴った。これで新聞の勧誘かなんかだったら、今度はすぐさま暴れてやる。そう思ってドアホンをとると宅配便だった。サインをして荷物を受け取り、二階の部屋に戻った。荷物の中身を確かめようとしたそのとき、またもやチャイムの音。今日はなにか特別の日なんだろうかと不思議に思いながら玄関に出ると、見知らぬ女性が二人、立っていた。「もうすぐ終末が来るのです」恐ろしいことを言いながら、若い女性が笑顔でぼくにパンフレットを差し出す。
 ぼくはこわごわパンフレットを受け取った。透子のいない今よりも恐ろしい未来が、まだあるっていうのか? 
「申し訳ないけど、今日はすごく忙しくて、お話を聞いてる時間がないんです」
 ぼくがそういうと、中年の女の人は哀れむような目でぼくを見た。若い方の女の人は悲しそうな表情を浮かべたけれど、それ以上は何も言わずに帰っていった。
 おどろおどろしい書体で「終末のとき」と書かれたパンフレットを見ながら、部屋に戻ろうとしたとき、そういえば今日はやけにシマシマが静かだなと思った。ぼくが急いで階段を上ったり下りたりしているときに限って物陰から飛び出してきては、ぼくの足元にまとわりついてくるというのに……。ヤツは遊んでるつもりかもしれないけれど、時々、階段からぼくを突き落とそうと思ってるんじゃないかと疑いたくなるほどだった。それなのに今日は、朝飯を催促しにきて以来、姿を見ていない。まあ、おとなしくしているなら、わざわざ寝た子を起こすこともない。今日は天気もいいし、どこかで昼寝でもしているんだろうと仕事に戻った。
 夕方、いつもの時間に晩飯の催促にこなかったことが少し気にならないでもなかったけど、ちょうど込み入った電話をしているときだったので放っておいた。電話を切ってからも、メールを書いたり、宅配便で届けられた資料に目を通していた。気づいたときには午後七時をまわっていた。こんな時間までシマシマが食事の催促にこないなんて、これまでなかったことだった。具合でも悪いのかとさすがに気になって、キッチンやリビングの窓辺をさがすが、シマシマの姿はない。名前を呼んでも返事もないが、これまでぼくがシマシマの名を呼んで、それにこたえてうれしそうにぼくのところに駆け寄ってきたとこは一度もないのだ。
 ぼくはシマシマをおびき出すために、キッチンでなるべく大きな音をさせながらカツオ節のパックを取り出した。いつもなら引き出しを開けた瞬間、どこからともなく駆けて来て、ぼくを見上げて早くよこせと言うはずなのに、今日はシマシマのどたどたという足音も鳴き声もしない。「お~い、オカカだぞ」どこにいるかわからないシマシマに向かって声を張り上げたが、空しくキッチンに響いただけだった。
 二階に上がって、ぼくの部屋のベッドカバーをはぐり、クローゼットをあける。念のため、透子の部屋のドアもあけて中を確かめるが、シマシマがドアを開けて入れるわけもない。
 再び一階に戻って風呂場や玄関の靴箱、まさかと思ってトイレものぞくが、どこにも姿はない。降参だ。気がつくと、左腕に血がうっすらとにじんでいる。ぼくはカツオ節の小袋を持った方の手に無意識に爪を立てていた。腕の内側のやわらかい皮膚がじゅくじゅくしている。窓に目をやると、外はもう真っ暗だった。家のなかに居ないということは、まさか外に出ていってしまったのか、と考えてはっとした。昼間、宅急便や人が尋ねて来たときに違いない。玄関を飛び出すと外気はシンと冷え、あたりは暗かった。
 居てもたってもいられず、当てもなく歩き出した。ちょうどそのとき背後から来た車が減速もせずにクラクションを鳴らした。とっさに車を避ける。テールランプを見送りながら、もしこんなふうに走ってきた車にはねられて、シマシマがぺちゃんこになっていたらとネガティブな考えしか浮かばない。車にはねられていなくても、目の前を流れる川に落ちたら、ぼくには見つけることもできない。どうしよう。どうしよう。どうしよう。もっとぼくが気をつけてやるべきだった。最初に居ないと気づいたときに、すぐに探すべきだったんだ。そうすれば、家のまわりをうろうろしているところを見つけられたかもしれない。だが、いまさら言ってもどうしようもない。
 あせるばかりでどこを探せばいいのか見当もつかない。暗い溝やよその家の生垣、駐車場に止まっている車の下ものぞいてみるが、それらしい姿はない。どこに行ってしまったんだろう。どこにも行くところなんてないはずなのに。
 「シマシマ、シマシマ」と、歩きながら声に出して名前を呼んだ。だが人が近づいてくるとぼくは黙り込んだ。すれ違ったサラリーマン風の中年男が、不審者を見る目でぼくを振り返った。上着も着ずに震えながら、あちこちに視線をさまよわせるぼくは確かに不審だろう。だからといって、「猫を探してるんです」と言い訳しながらさがすわけにもいかない。時間だけが過ぎて、夜風に容赦なく体温を奪われていく。この寒空にシマシマも腹を減らして、寒さで震えているにちがいない。
 ふと思い立って、いつかレイコがシマシマを見つけたという、小学校の方へ足を向けてみた。小走りで三分ほど走ってたどり着いた小学校は、下校時間もとっくに過ぎて、猫どころか子どもだっていやしない。フェンスに両手をかけて見回す校庭は、ガランとして不気味なだけだった。結局、無駄足だった。あきらめて家に帰ろうと、きびすを返す。なぜ、またここにシマシマが来ているなんて思ったのか、自分でも不思議だった。郵便局の角を曲がり、交差点を寒さにふるえながらわたる。街灯の青い光がぽつりぽつりと道を照らしていた。
 もともとシマシマは外から来た猫だ。今さらふらりと出ていったとしても、驚くことも、心配することもないのかもしれない。それに一度は自分のこの手で捨てにいったんだ。これでぼくが最初に望んだ通りになったわけだ。それが今になって心配したり、さがしまわったりするなんておかしいじゃないかと、自分で自分を笑った。
 だがもしかしたら、ひとしりきり外で遊んで、今ごろは家に戻って、ぼくが食事の用意していないことに腹を立てているかもしれない。そんな楽観的な考えに突き動かされて、ぼくは全速力でまた家に戻った。
 だけど、家の周りにはシマシマの姿はなかった。「シマシマ~、ご飯だぞ」と、呼んでみても答えるものはなかった。
家のなかはもの音ひとつしない。透子がいなくなったときよりも、もっと静まり返り、四方から静寂と孤独と寒さが迫ってくるような気がした。
 人間の透子と違って、スマホも持たず、行方を尋ねるべき友だちも持たないシマシマをどうやって探せばいいんだ?! 透子がいない今、ぼくにはもうシマシマしかいなかった。
ぼくはシマシマの無事を祈り続けた。

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