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シッソウカノジョ 第二十一話

 翌日も、そのまた翌日も、シマシマは帰ってこなかった。
 シマシマが出て行ってしまってからいうもの、夜中でも窓辺で物音がするとベッドから起きだして、寒さに震えながら家の外を見て回った。昼間は昼間で仕事も手につかず、うろうろと近所を当てもなく歩き回る。三日目の今日は、夜明けに降り出した雨の音せいで、おちおち寝てもいられない。
 シマシマは居ても居なくても、ぼくを眠らせないつもりらしい。いつまでこんな状態が続くんだろう。ここ数日、ぼくは食事も喉を通らず、ひげを剃る気力もなかった。ガラスに映る自分の顔をみると、皮膚はハリをなくして顔色もよどみ、目のしたには隈がくっきりと浮かんでいる。風呂にも入っていないせいで、身体がむずむずして、いつもどこかをぼりぼりと掻いている。皮膚科に駆け込んだほうがいいのかもしれないけど、雨が上がると、ぼくはまた町内をほっつき歩いた。
 シマシマは猫のなかではかなり大きい方だ。だが町全体から探しだすとなると、やっぱりちっぽけな存在だ。それに猫のテリトリーって、何キロ四方、それとも何十キロ四方をいうんだろう。ぼくはそれもわからないまま、むやみやたらと歩き回ることしかできなかった。雨で水かさの増えた川や溝を恐る恐る覗き込み、近所の植え込みのなかに首を突っ込み、駐車場では土下座するように両手をついて車の下を確認し、繰り返し名前を呼び続けた。
 無我夢中で歩いているうちに、気がつくとぼくは透子が男と一緒にいたという本屋や透子が好きだった花屋、透子のよく通っていたカフェに足が向いていた。一体誰を探しているのか、だんだん自分でもわからなくなっていた。歩くだけあるいているうちに、大切な人を探しているという意識だけが強くなって、すれ違う人のなかにいつの間にか透子の姿をさがしていることに自分でも驚いた。
 だがこんなことを続けていたら、いつかは近所の人に通報されてしまうに違いない。すれ違いざまに「なにこの人、キモい」という視線を感じることが多かった。
 そんなリスクを犯して歩き回っているというのに、透子も、シマシマも、それ以外の猫一匹みつけることができないっていうのも不思議だった。
 犬を散歩させている人が多いせいなのか? それにしても、町に野良猫が一匹もいないなんてことあるんだろうか? もしかするとこの町内には、組織的な猫獲りでもいるんじゃないだろうか。それともこれがいつか言っていた、町内会長さんの努力のたまものなんだろうか。そんなことをあれこれ考えながら、朝から歩き回って、すっかりくたくたになった。仕事だってしなきゃいけないのに、まだ手もつけていない。どうしたらいいんだ。
 とりあえず、一度家に帰ろうと、通りがかったコンビニに寄って、牛乳のパックひとつをぶら下げて家に向かった。
家の前まで来ると、玄関の前にいつかシマシマを連れて帰ってきた女の子が座っていた。
「も~、どこ行ってたのよ」ぼくの姿を見ると女の子は不満そうに言った。
「おまえこそ、学校はどうしたんだよ」ぼくはダウンジャケットやジーンズのポケットをあちこち探りながら言った。
「『おまえ』じゃない!」ぼくを下から睨みつける。「わたしは、レイコ」
「あぁ…悪かった。レイコっていうのか。素敵な名前だ、きみにぴったりだ。で、学校はどうしたんだ?」
「休みに決まってるじゃない。だから今日は、シマシマに会いにきてあげたの」
「だれも来てくれって頼んでないよ」やっと鍵をみつけ、玄関をあけながら言う。「それにシマシマは、いないんだ」
「なんでよ。どこにやっちゃったのよ」
「『どこにやっちゃった』って、まるでぼくが悪いみたいじゃないか」
 だが、そういわれても仕方ないのかな。透子のことといい、シマシマのことといい、みんなぼくに愛想を尽かして出て行ってしまったんだろうか? そう思いはじめると、レイコに強く言い返す気力も失せてしまった。
「いいから中に入れよ。そんなとこに座ってたら寒かっただろ」
「シマシマをどこにやっちゃったのよ」
「どこにもやっちゃいない。勝手に出てちゃったんだ。嘘じゃない」ぼくは手短にシマシマがいなくなった日のことを話した。
 レイコは眉間にシワをよせ、じっと話を聞いていた。そして、ぼくが買ってきたばかりの牛乳で作ったココアを飲んだ。
「だから、今日もこのあたりをずっと探して回ってたんだ」と言い訳めいたことまで付け加えていた。小学生相手に。
カップをテーブルに置くと、レイコはおもむろにぼくの顔をみて言った。「そんなんじゃあ、探しているとはいえない」
ドキッとした。確かに、こんなやり方じゃあいつまでたっても見つからないかもしれない。だからって、そんな言い方はないんじゃないか?!
「そ、そんなに言うんだったら、なんかいいアイディアがあるんだろうな? え? 言ってみろよ」自分でも大人気ないと思ったけど、つい大きな声を出してしまった。
「そんなのないよ」と、レイコはきっぱりと言う。
 やっぱりね。他人の苦労なんてこれっぽちもわかんないんだよ。一見、なんでもなさそうなことでも、やってみるとすっごく大変なんだ。朝からぼくがどれだけ歩き回ったかも知らないくせに! と、心の中で抗議した。
「でも」と、彼女は続けた。
ぼくはレイコの顔をまじまじと見た。「でも、なに?」
「方法はある」
「どんな方法だよ。わかりやすく言ってくれよ。もったいぶらずに」
「『もったいぶらずに』って、なに?」とレイコが聞く。
「なんでもない。忘れて」
「わかった。忘れる」椅子からぽんと立ち上がってぼくを見た。「じゃあ、行こっか」
「……どこへ?」
 レイコはずんずんと玄関へ行き、靴をはいている。ぼくも一縷の望みを抱いて後に続いた。
「猫のたまり場でも知ってるのか?」と、前を行くレイコに声をかける。
「『たまり場』ってなに? なんで猫がたまるの?」振り返らずに言う。
「なんでもない。忘れて」
「わかった。忘れる」
 レイコに連れられてたどり着いた場所は、蓬田さんの家だった。あの全身一色のコーディネートでないと気のすまないマダムの家は、遠くから見てもかなり大きいが、間近に見るとやはり大きかった。
「なんで蓬田さんの家にシマシマがいるって思うんだ?」
どっしりとした門の前に並んで立つレイコに聞いてみた。
レイコは返事もしない。そして、ためらうことなく玄関チャイムを押そうとする。
「あ、ちょっと待って。なんで蓬田さん家なんだって聞いてるのに、心の準備が…」
ぼくの動揺をよそに、レイコはチャイムを押すとインターフォンに向かって話しかけている。いまさらぼくだけ逃げだすわけにもいかず、ひたすらレイコの横であたふたした。

「まぁ、大変。そうなの、シマシマちゃんが、勝手に、ひとりで、自分から、出ていっちゃったの。そうなの……それは心配ねえ」
 猫足のソファに腰掛け、レイコの説明を聞いていた蓬田さんはおっとりと言った。淡いイエローのブラウスとスカート、そして同色のカーディガンを身に着け、今日はレモンの妖精のような蓬田さんは、言葉の響きは心底同情的なのに、なんとなく“シマシマが勝手に出て行くわけはないんじゃないのかしらねぇ”という、言外にぼくを責めるような言い方に聞こえるのは、ぼくのひがみ根性がそう思わせるだけなんだろうかと、出された紅茶を飲みながら考えていた。
 とはいえ蓬田さんは、ぼくらの突然の訪問にも嫌な顔ひとつ見せず、親切にぼくらを家にあげて話を聞き、こうしてケーキと紅茶でもてなしてくれたのだ。ミニ豚のプリは玄関を入るときから、ぼくら二人を珍しい生き物を見るような瞳で見つめていた。ぼくはひどく落ち着かなかった。だがぼくを落ち着かない気持ちにさせるのは、プリのきらきらした瞳のせいだけじゃない。ぼくらが通された部屋の家具や調度品は、素人のぼくが見てさえかなりの代物だった。多分、値段を聞いたら、目もくらむようなものばかりなんだろう。細かい彫刻を施したテーブルや椅子だけでも、ぼくの一年の稼ぎでも買えないしろものだろうと考えただけで心穏やかではいられない。その上、西太后が美女を詰めるために用意したかのような巨大な壷だか花瓶だかが置かれたカーペットには、花や蔦の模様が細かく織り込まれている。たっぷりひだをとったカーテンが飾られた出窓のそばの止まり木の上には、頭部から足まで、軽く四十センチ以上はあるオウムが一羽、ナッツかなにかを齧りながら、ぼくらを見下ろしていた。
 驚いたことにオウムは全身が淡いピンクの羽毛に覆われている。まさに蓬田さん好みだ。時おりオウムは、バサバサと羽ばたいたかと思うと、「ほ~ほほほほ」と、人の笑い声に似た声をたてる。かと思うと、「あ~あぁ」と、全身の力が抜けるようなため息をついてみせた。これが芸なのか、家のだれかの口癖を身に付けてしまったのかはよくわからないけれど、好奇心旺盛なミニ豚と奇声をあげるピンクのオウム、レモンの精、そして座敷わらしに囲まれて飲むお茶は不思議な味だった。
「大丈夫。きっとみつかりますよ」蓬田さんは親身になって励ましてくれた。「だから、気をしっかり持ってね。うちのプリが迷子になったときもね、ご町内のみなさんに協力して見つけていただいたの。このあたりは、みなさんとても親切な方ばかりだから、きっと見つかりますよ」
 だがミニ豚と雑種の半分野良猫では、稀少さにおいても世間の関心においても、まるで比べものにならないんじゃないだろうかと、ぼくは内心思った。
「まずは、ビラね。ご近所にビラを配って協力していただきましょう」
「ビラ……ですか」
 蓬田さんには悪いけど、ここに来たのはやっぱり無駄足だった。そんな投げやりな気持ちになって、ぼくはつい気のない返事をかえした。
「『迷い猫を探しています』って大きく書いて、シマシマちゃんの写真の下にあなたの連絡先をそえておけばいいのよ。ね、簡単でしょ」
「でも、写真なんてないんですよ。一枚も撮ってなくて」
「だったらシマシマちゃんの毛の模様とか、年齢とか、大きさ、それから特徴やなんかを箇条書きにしてね、あとは似顔絵を描いたらいいじゃない。ね、簡単でしょ」
 ぼくは心のなかでうなだれた。蓬田さんが口で言うほど、全然、簡単なことじゃない。シマシマみたいに単純な白黒の縞模様の猫は、掃いて捨てるほどいるはずだ。なにより、この作戦の最大の問題点は、ぼくはものすごく絵が下手だってことだ。ビラを見た人たちから、猫だか地球外生物だかよくわからないものが持ち込まれるに決まってる。やっぱりここに来たのは時間の無駄だった。それもこれもレイコのせいだ。ぼくは隣に座っているレイコを睨みつけたが、レイコはぼくをここに連れてきたことで、自分のやるべきことは終わったとでも思っているのか、ぼくと蓬田さんの話には耳もかさず、黙々とケーキを食べている。
「あ、それともうひとつ!」蓬田さんが目を輝かせた。
「なんですか?」と、聞いてはみたけれど、あまり期待はしていなかった。
「それはね」うれしそうに蓬田さんは続ける。「ビラに『みつけてくださった方には、謝礼を差し上げます』のひとことを添えるのを忘れないことよ」
 それを聞いて、思わず声が裏返る。「血統書とかもついてない、ただの駄猫に謝礼?」
「これがあるのとないのとでは、全然違いますからね」蓬田さんはものすごく得意そうだ。
「あ~あぁ」頭の上のオウムが、ぼくの気持ちを代弁するように啼いた。
 これではっきりした。やっぱり蓬田さんに聞いたのが間違いだったんだ。ぼくは蓬田さんの顔をぼんやりと見ていた。
思いのほかぼくが感心しなかったせいで、蓬田さんのテンションもすっかり下がって、部屋の空気がしぼんでしまった。レイコが紅茶をすするのんきな音だけが響く。蓬田さんが悪いわけじゃない。ただ価値観が違うだけだ。こんないい人と、なんとなく気まずくなったのはレイコのせいだ。でもレイコは、ケーキを食べ終えて満腹のせいか、ぼんやりと宙をみていた。
「じゃあ、あんまりお邪魔してもなんですから、ぼくらはこれで失礼しようか」
 なんにも考えていないレイコに声をかけて切り上げようとした。ぼくらが腰を上げると、蓬田さんもぼくらを玄関まで送ろうとソファから立ち上がった。
「ごめんなさいね。あんまりお力になれなかったみたいで……」蓬田さんはすまなさそうにいう。
「いえ、そんな。こちらこそ、突然お邪魔してすみませんでした」
「シマシマちゃん、早く連絡があるといいわね」
「連絡……ですか? ど、どこから?」ぼくは蓬田さんを見た。
「動物管理センターとか保健所。それからご近所の動物病院ですよ」彼女は当然のように言う。
「え!? 動物病院? 保健所……」
 動物病院という言葉に反応するように、ミニ豚のプリもオウムもレイコも一斉に顔を上げてぼくを見た。
「当然もう行かれたと思ってましたわ。だって今日で三日も経つんでしょ」
「そうか、動物病院や保健所! そ、そうですよね。すっかり忘れてました。っていうか、思いもしなかったっていうか。あ~、そうか。なんで気がつかなかったんだろう」
 あたふたするぼくに、その場にいたみんなが、一斉にため息をついた。

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