シッソウカノジョ 第十二話
自転車に乗るなんて、何年ぶりだろう。庭で雨ざらしになっていたママチャリは、タイヤの空気が抜け、フレームも錆びだらけだった。空気は入れたもののペダルを漕ぐたびに、金属がこすれあう淋しいような、情けないような音がする。空にかかる月は凍えて、吐く息が白い。無灯火で走るのは危険だとわかっていたけれど、この自転車にはライトが付いていのだから仕方ない。うつむきながら漕ぎつづけていると、また一台、大型トラックが追い越していった。風圧で倒されそうになるのを必死にこらえながらペダルを踏み続ける。
いつのまにか周りは見たこともない街並みだった。国道を走って、こんなに遠くまで自転車で来るのは初めてだ。ずいぶん前からふくらはぎが猛烈に痛んでいた。家を出るときにはひどく寒かったのに、今は着膨れたフリースの下にびっしょりと汗をかいていた。息もきれて、体力も限界だ。だが、ペダルのひと漕ぎひと漕ぎが苦しいのは、自転車の油がきれているからでも、タイヤの空気がまた抜けてきたからでもない。自転車の荷台に積んだ荷物のせいで、鉛をのみ込んだような気分だった。
いつものように夕方の五時、ぼくが仕事をしているとシマシマはパソコンデスクの上にのっそりと座りこみ、エサをよこせと無言で要求してきた。ぼくがすぐに仕事の手をとめて椅子から立ちあがりキッチンに向かうと、シマシマも机から飛び降りていそいそとついてきた。
この日のために用意したのは、牛肉の薄切り。タイムサービスで半額になっていたとはいえ大散財だ。パックのビニールを破って牛肉を皿に盛り、シマシマの前に置いた。少しも怪しむこともなく、シマシマはものすごい勢いで食いついた。そしてムチャムチャと音を立てて咀嚼し、嚥下する。一皿ペロリと食べつくすのに数分とかからなかったが、未練たらしく皿をなめ続ける。皿から牛肉の味がなくなると、やっと諦めがついたのかキッチンを出て、リビングのソファで白い腹を上にして眠ってしまった。
無防備というか、ふてぶてしいというか、安心しきった態度が無性に腹立たしかった。なぜってぼくは、これからおまえを家から離れた、もう二度ともどってはこられないような遠いところへ捨てにいこうっていうんだから。だからといって、ぼくが悪いわけじゃない。罪悪感を感じる必要なんて、ぜんぜんないはずだ。だって、おまえはうちに来る以前の状態にもどるだけだ。ここ数日は、たまたまぼくがエサをやって、たまたま家に泊めてやっただけで、これから先ずっと家で飼うなんて約束した覚えはない。そう心のなかで自分の正当性を確かめてみる。それなのに、タイムサービスの牛肉の薄切りを食べさせたことまでもが、自分をひどく残忍な人間に貶めているような気にさせた。
ここまできて、いまさら後戻りはできない。ぼくは冷たい風に髪をなぶられながら自転車を漕ぎ続けた。振り返って荷台にくくりつけたダンボール箱をちらっと見ながら、「悪く思うなよ」と心のなかで呟いた。もう限界なんだ。朝、五時に起こされることにも、手足を噛みまくられて傷だらけにされることにも、パソコンのデータをだいなしにされることにも、もう疲れちゃったんだ。箱に入れられてからは、さすがに何かあると感じたらしく、ずっと鳴き通しだったシマシマも、今はすっかり静かになった。鳴き疲れたのか、それとも突然、寒くて狭苦しい箱に閉じ込めたぼくへの復讐の方法をその小さくて邪悪な頭のなかで考えているのかわからないが、静かになってさえ不気味だった。
すれ違う車のヘッドライトに目をそむけながら長い土手を走っていると、大きな橋の向こうに、すべり台と棒上りとはしごを組み合わせた、オブジェのような遊具が見えた。河川敷に設けられた公園だった。あそこなら安全だろう。もしも運悪くシマシマが車にぺっちゃんこにされて、猫型の座布団みたいになったら、ぼくだって寝覚めが悪い。ぼくは公園の方へと向かった。
そこは人影もなく閑散として、風が川面をわたる音が聞こえるだけだ。自転車を止めると「着いたぞ」と、わざとぶっきらぼうに声をかけたが箱のなかは静かだ。
荷台からおろした段ボールはずしりと重く、胸にこたえる。静かにふたをあけ、時おり行き交う車のヘッドライトや街灯のわずかな灯かりをたよりに、そっとなかをのぞきこむ。大きな目がギラリと緑色に光ったかともうと、すぐにいつもの黒い瞳になった。シマシマは鼻先を空に向けてクンクンと風の匂いをかぎ、耳をそばだてて、どこに連れてこられたかを探っている風だった。
シマシマを抱え上げると、大きな黒々とした瞳でじっとぼくを見つめる。
「ここでお別れだ。これからは、お前の好きなところにいくといい」
シマシマはぼくの言葉を全て理解したように見えた。三角の耳が動き、静かにぼくをみつめ返す。胸がシクシクと痛むが、ここで甘い考えを起こしたら負けだ。そう自分に言い聞かせてゆっくりとシマシマを地面におろした。すると、地面に前足が着くが早いか、一目散に草むらへと走り出し、シマシマの姿はあっという間に闇に紛れて見えなくなった。
一瞬のことだった。あまりのあっけなさに立ちすくんだ。シマシマは立ち止まることも振り返ることもしなかった。ぼくの足に身体をすりつけたり、甘えてくるなんて絶対ないとわかっていたはずだったのに、この虚脱感はなんなんだろう。シマシマを捨てにきたぼくの方が、まるで取り残されたような気分だった。
大きくひとつ息を吐く。鼻の奥がつんと痛かった。ここまで自転車を漕いで、汗まみれになった身体もすっかり冷えて、今はひどく寒い。これから、あいつはこの寒さをどこでしのぐんだろうかとか、エサをどうやって手に入れるんだろうといった感傷的な気分に支配されてしまわないように、ぼくはいそいで自転車にまたがると、家に向かって全力で走った。ペダルを漕ぐたびに金属がこすれあうさびしい音が、いつまでもやむことはなかった。
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