シッソウカノジョ 第十八話
夜十一時を少し過ぎ、ベッドに滑り込むとフカフカの枕に顔をうずめた。取り替えたばかりのシーツと枕カバーは、ぱりっとしていい香りがする。そっと目を閉じ、暗闇のなかで、羊水に包まれる自分をイメージして、温もりに身をまかせる。いまだけは煩わしいことは考えず、とにかくこの温もりに身をまかせよう。頭を空っぽにして眠ろう。透子だって、今ごろはきっと寝ているはずだ。どこで寝ているんだろう。彼女の隣には、もうだれかいるんだろうか? まさかぼくの知ってる男なんじゃないだろうな。ぼくのなにが悪かったんだろう。ぼくらは喧嘩ひとつしたことがなかったのに。それとも、喧嘩にもならないほど、透子はぼくに絶望していたのか。寝返りを打つ。ぼくよりも好きな男ができたのだとしたら、なんで黙って出て行っちゃったんだろうと考えながら枕の位置を少し変える。透子の性格からいって「もう裕輔とはやっていけない」とか、「他に好きな人ができたの。別れましょ」と、残酷なほど明確で簡潔に宣言してから出ていきそうなものなのに。
ぼくは両目をカッと見開き、暗闇を見つめた。どんなに考えても、ひとりでは答えの出ない問題をまた今夜もひっぱりだしてきてしまった。悪い癖だ。明日は早いのに。打ち合わせに行かなきゃいけないのに。早く眠らないといけない日に限ってこれだ。
そういえば、透子が残していったクローゼット一杯のバッグや服の山はどうするつもりなんだろう。ぼくはクローゼットの中身と一緒に捨てられたってことか。古くなった服や飽きられたバッグと同じ扱いかと思うと情けなくて涙もでない。
でもぼくらにだって、まじりっけなしに楽しかったときが確かにあった。二人でいるだけで、全てが満ち足りていると感じた時が。もし、二人の未来に暗い影がさすことがあるとすれば、それは病気とか事故とか、外からやって来るもので、ぼくら二人の気持ちがすれ違うことなんて想像もしなかった。同じものを見て微笑みを交わし、同じものを食べておいしいと感嘆し、セックスの相性だって抜群だったのに。いつからこんなことになったんだ。ぼくは彼女のなにを見ていたんだろう。
眠ろうとすればするほど、くだらない思考は心の奥の方の暗く湿った場所からずるずるといくらでも湧き出してきた。見るなといわれれば、目を閉じればいい。聞くなといわれれば、耳をふさぐことはできる。だけど、考えるなといわれたら、どうすりゃいいんだ。
暗闇になれた目で天井をみつめていると、淡く白い透子の肉体が浮び上がった。左右で大きさがほんの少しだけ違うふたつの乳房。指先で触れると、ツン固さを増す乳首。細い肩と、それに続く細い首。彼女の髪の甘い香りまで蘇ってくるようだ。くびれたウェストはしなやかで力強かった。熱くしめった彼女のぬくもりが懐かしい。彼女の喘ぎ声が耳元に聞こえる。ぼくのペニスに絡まる柔らかな指を思いだすと、熱いものがぼくの背骨を駆け上がってくる。上目遣いの挑むような彼女の視線が、暗闇の中でもはっきりと見えた。唇を寄せ、舌先で味わうようにぼくを舐めあげると一気に含み、強く吸う。震えるまつげ。ぼくは甘美な痛みの渦に引きずりこまれ、いつのまにか低いうめき声をあげていた。痺れるような歓び。ベッドのなかでひとり、大きくため息をついた。
ぼくは枕に顔を押しつけて、漏れてくる嗚咽を押し殺した。いつから彼女を見失ってしまったんだろう。いまはもうからっぽになってしまったぼくのなかで、大きく空ろに響く鼓動を数えていた。
淡い眠りは、窓の外から聞こえる車のエンジン音で中断された。町が目覚め、また新しい一日が動き出そうとしている。身体はだるく、こめかみが鈍く痛んだ。ベッドから這い出すときにバランスを失って、足元に無造作に積んでいた本にぶつかって雪崩が起きた。なんとかキッチンまで降りて、熱くて濃いコーヒーを飲んだ。それでも意識が覚め切らないままヒゲをそると服を着替える。約束の時間には少し早いが、家を出ることにした。
駅に向かって歩いていると、行き交う人みんながぼくのことを見ている気がした。そんなの気のせいだ、きっと神経質になりすぎているんだ、と自分に言い聞かせる。だがすれ違う人たちはぼくを見ては、アブナイヒトを見るようにすぐに目をそむける気がした。駅に近づくにつれ、人通りは増えてきた。ぼくは人々の視線を避けるように俯きがちに歩きながら、ふと顔に手をやって、ギャッと悲鳴をあげた。血だ。手が血まみれだった。あわてて駅構内にある証明写真の撮影ボックス脇の鏡をのぞくと、顔からのどにかけて血がタラリと流れていた。安物のカミソリのせいだ。ひりひりするのは風が冷たいせいだとばかり思っていた。ティッシュでふき取り、手の甲で頬をこすりながら改札を抜け、いよいよ深くうつむいて電車を待つ人の列に加わった。列車がホームに滑り込み、ドアが開くと、ぼくは周囲に目を走らせ、空いた席を見つけてすばやく腰掛けた。顔の切り傷は今さらどうしようもないが、血はどうにか止まった。このまま座っていれば、約束の時間には充分に間に合う。ほっとして、ぼくは軽く目をつぶった。だがそれが失敗だった。
「お客さん、終点です。起きてください。車庫に入ります」
車掌に起こされるまで、なぜ自分が列車に乗っているのかわからなくなるほど眠り込んでいた。口の小さくなかですみませんと言って列車を飛び降りると、見も知らない駅だった。血の気が引いた。
ホームの目の前に停車していた列車が、今まさに発車しようとしていた。発車のベルに促され、急いで飛び乗った。背中でドアが閉まり、ほっと息をつく。このまま折り返せば数分の遅刻ですむだろう。とにかく駅に着いたらすぐに飛び出して、改札まで走ろうとドアの前に立ってじりじりとして到着を待った。
「ああっ」と、ひと目もはばからず叫んでいた。
降りるはずの駅を列車はすごいスピードで通り過ぎてしまった。これで確実に遅刻だ。とにかく先方に事情を説明して、謝っておこうと、ぼくは吊革に片手でぶら下がってカバンからスマホを取り出し、猿のように揺られながら電話番号を検索した。すると突然スマホが電池切れの警告メッセージを表示した。なにも、こんなときに……。頼む。もう少しだけがんばってくれ。せめて最後に一通話だけ。頼むから、こんなぼくを見捨てないで、と懇願しながら電話番号を探す。
それまでじっとスポーツ新聞に見入っていた黄色と黒のジャンパー姿のおじさんが、突然、「どういうつもりだ!」とトラのようにぼくに吠える。突然のことで、まるで状況が飲み込めない。
「アナウンスを聞いてなかったのか」スポーツ新聞を握りしめ、おじさんはまくしたてた。「ここは優先座席だ。電源を切れと言っとっただろう。切れ! 切れ! 今すぐ切れ! わしを殺す気か。わざとだな。そうなんだな」
車内の空気は凍りつき、乗客の視線が一斉にぼくら二人に集まった。そのとき、トラおじさんの隣でメールを読んでいた学生服の女子が、キラキラにデコッたスマホをこっそりとバッグにすべりこませるのをぼくは見逃さなかった。怒られ体質。ぼくには、そんな悲しい言葉がぴったりだ。
「おれのヘルスメーターに何かあったらどうしてくれる。責任とれるのか」トラおじさんは車内中に響き渡る声で吼え続ける。
だが、あんたのすぐ隣で、もうず~っと前からスマホ使ってましたよ、それにペースメーカーじゃないんですか?といいたいのを必死で我慢して誠心誠意謝った。それなのに、トラおじさんの怒りはなかなかおさまらない。そりゃ、ぼくは不注意だった。100パーセントぼくが悪い。車内アナウンスも聞き流していた。だが、別に通勤電車に三八口径リボルバーを持ち込んだわけでも、電動ノコギリを振りまわしてたわけでも、熱々の鍋焼きうどんを立ち食いしていたわけでもないんだ。こんなに謝ってるのに、そこまで怒鳴ることないじゃないか。
トラおじさんは怒っている自分に興奮したのか、手にしたスポーツ新聞をぐしゃぐしゃにして、「車掌を呼べ! 早くしろ!」と周囲にまで怒りを撒き散らしはじめた。
だれか、助けて。怒られ体質のこのぼくを。すがるような視線で車内を見回すが、車内の乗客は今度は目を合わせないようにうつむいたり、寝たふりをして、トラおじさんとぼくに関わりになるまいとしている。とにかく、一刻も早く次の駅に到着してくれと心のなかで祈るしかなかった。次の駅は、約束の場所より二駅も手前だが仕方ない。
列車が駅に止まると、「本当に、すみませんでしたぁ」と大声でひとこと残して列車を飛び降りた。右手にカバン、左手にスマホをにぎりしめたまま、息をきらしながら、改札口めざしてホームを全力で走る。階段を上がり、また駆け下りて改札を出ると、止まっていたタクシーに乗り込んだ。そんなことをしている間に、充電してくださいというメッセージを残してスマホはひっそりと活動を停止した。これで連絡の手段だけでなく、先方の電話番号を知る術もなくなってしまった。
仕事に遅刻したぼくは、大切な得意先をひとつなくしてしまった。なにもかも寝不足のせいだ。仕事のクオリティはどうあれ、ぼくは待ち合わせでも、仕事の納期でも、一度交わした約束を違えないってことだけは守ってきたつもりだった。それが、電車で眠りこけてました、なんて言い訳にもなりゃしない。こうして信用をなくし、仕事をなくし、生活が立ち行かなくなる日も、そう先の話じゃない。家賃、光熱費、食費、税金……生きていくには金が要る。普通に日常を生きるだけでも決して楽じゃないというのに、透子のことを考えてさらに眠れない日々が続く。
だからきっとナーバスになっているんだと思った。最近、机に向かっているときも、買い物をしているときも、食事をしているときも、いつもどこかから、だれかにみられているような、落ち着かない気分がずっと続いていた。
最初は、だれかに監視されているなんて、少し神経質になっているだけだと、自分に言い聞かせた。なにしろぼくの仕事なんて、だれかに知られて困ったり、秘密が漏れて社会に影響を及ぼすようなものじゃない。海外のゲームのシナリオの翻訳や開発者のインタビューだ。マニア以外には見向きもされない。毒にも薬にも、金にさえならないものだ。ぼくの仕事部屋をのぞいたり、ぼくを監視して得られるものなんて、なにもない。それに、ぼく個人に興味を持つ人間なんて、まず皆無だ。
そう頭ではわかっていても、このわけのわからない不安が拭い去れるわけじゃなかった。
駅でふとだれかに見られているような気がして立ち止まり、あちこちを見回す。でもそこには、見知らぬ人の群れがあるだけだ。別にぼくを見ている人なんていやしない。家で机にむかっているときも、ふと気配を感じて目を上げても、やっぱりひとかげなんてない。
そういえば、この感覚はなにかに似ているような気がした。そう、かくれんぼだ。
子どもの頃、みんなとかくれんぼをしていて、家の暗がりに息を殺して必死に身を隠しているときの誰かからじっと見られているような、あの落ち着かない感じだ。ぼくのいるところに向かってひたひたと足音が近づいてくる、あのひりひりするような感じにそっくりだった。
だが、ぼくを落ち着かない気分にさせるのは、それだけじゃない。シマシマの奇妙な行動だ。いつもなら餌をねだるとき以外は、ぼくのことなんて目にも入らないといった態度で、そっぽを向いているのに、ぼくが仕事をしていると、机に広げた資料の上にわざと座り、窓からしりきに外を見ることが増えた。スズメのさえずりでも聞こえるのかと、ぼくが耳をすましてみても何も聞こえない。不思議に思ってシマシマをみると、ヒゲを震わせ、オンゴロオンゴロと猫語でなにやら唱えながら外を見上げている。シマシマの視線の先には、ワンルームマンションのベランダが見えるだけだ。洗濯ものが揺れていたり、時々、ちらっと人の姿が見えることがあっても、お互いにすぐに目をそらすか、すばやくカーテンを引いて部屋の奥に引っ込むかして、顔をあわせるのを避ける。それが住宅密集地で暮らす者のルールだ。
だからといって、ぼくがカーテンを引いても、シマシマは別に文句を言うでもなく、机の上からドスンと猫にあるまじき音を立てておりると、昼寝に最適な場所を探しにいってしまうのだった。それなのに、ぼくのこの落ち着かない気分は簡単にはおさまらない。むしろ誰かに見られていると言う妙な気分は、日増しに膨らんでいくばかりだった。
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