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シッソウカノジョ 第十六話

 仕事の打ち合わせを終えたのは午後六時を過ぎた頃だった。取引先の接客ブースで、クライアントの小田嶋さんがタブレットから顔を上げてぼくを見た。
「それじゃあ、このあと軽くいっとく!?」
 部類の酒好きの小田嶋さんは、細い銀ぶち眼鏡の奥の小さな目をさらに細めた。
 仕事先の人と飲むのは、案外気を遣うものだ。はめを外すこともできず、共通の話題といえば狭い人間関係の噂話。そして、最後は会社の愚痴を聞かされることになる。それなのについOKしてしまったのは、透子がいなくて人恋しかったからかもしれない。もちろん、家でぼくを……じゃなくて、ぼくが用意する食事を待っているシマシマのことが気にならなかったわけじゃない。だが、「家で猫が待っているから帰ります」なんて言えやしない。そんなことをいったら、変なヤツだと思われて、今後の仕事にも影響を及ぼしかねない。ぼくは普段から出来るだけ、常識のある社会人、さらに一歩進んで感じのいい人っていうイメージを周囲に与えたいと願っている。フリーで仕事をしている人間は、扱いにくいだの変わったヤツだのと思われたら終わりだ。自由という名のフリーランスを続けていくのも、これでなかなか不自由なものだ。
 オフィスを出ると小田島さんの案内で、駅に近い路地にある、それほど高級でもなく、居酒屋ほどカジュアルでもない店に入った。最初は軽く飲んで適当に切り上げて家に帰るつもりだった。だが、二軒目の立ち飲み屋を出たときは、夜の十時を過ぎていた。スマホの液晶に浮かぶ数字を見ながら、腹をすかせたシマシマが怒りのあまりソファの背をケバケバにしている姿がまざまざと脳裏に浮かぶ。だが、三軒目、小田島さん行き付けのバーで飲む頃には、もうどうでもよくなっていた。相手はたかだか猫だ。しかも、仕事先の人と飲む酒は仕事といってしまってもいいだろう。半ばやけくそぎみで行った四軒目の店で、ぼくらは隣のテーブルで飲んでいた二人組みの女の子と知り合いになった。
 若くて元気いっぱいって感じの真由ちゃんと、おっとりとしているけれど、どこかお姉さんっぽい雰囲気の怜美ちゃんと一緒に、カラオケにいくことになった。カラオケはあまり好きじゃないけど、怜美ちゃんと真由ちゃんが行くというなら、ぼくだって文句はない。
 四人で店を出たはずが、気づいたときには、なぜかぼくと怜美ちゃんは道路の植え込みのかげで抱き合っていた。しかも、ぼくはレンズが片方割れた眼鏡をかけている。どこかの酔っ払いが忘れていったものを冗談でかけてきてしまったのかもしれないけど、いつからかけているのかも全く記憶にない。どことなく小田嶋さんの眼鏡に似ているような気がした。もしもこれが本当に小田嶋さんのものだったらちょっと困ったなと、チラッと思った。小田嶋さん本人に確かめればいいことだけど、当の小田嶋さんともどこで別れたのか覚えがない。多分、彼もいまごろは真由ちゃんと……。
「家、ここから近い?」と、怜美ちゃんがきいた。
「うんまあ近いといえば近い……いやぁ、どうだろう」と曖昧にこたえる。
「じゃあ、今夜泊めて」と、怜美ちゃんは笑顔で言った。
 これは何かの罠じゃないか? と、一瞬考える。だが、酔って頬を上気させ、瞳を潤ませた怜美ちゃんの笑顔にぼくは抗えなかった。自分のものではない眼鏡をポケットにしまい、流れてくるタクシーに手をあげる。多少、心が痛まないでもなかった。だが、羽根をのばしていいって静子さんも言っていることだし……と自分に言い訳した。
 タクシーに二人で乗り込むと車内は温かく、彼女から漂ってくる甘い香りも心地よかった。酒の酔いもあって、運転手に到着を告げられるまで二人ともすっかり眠りこんでいた。
家の鍵をあけ、「さあ、どうぞ」と彼女を招きいれると、玄関で帰りを待っていたのか、すぐにシマシマがぼくの足に二本の前足をかけて伸び上がり、早くなにか食べさせろとうるさく抗議する。無粋なヤツだ。適当に何かを食べさせて黙らせよう。それから怜美ちゃんと二人で温かいコーヒー……それよりワインかなにかの方がいいかな。
「怜美ちゃん、コーヒーとワイン、どっちがいい?」振り返ると、玄関口に立ったまま、彼女は眉間にしわを寄せ、固い表情でぼくの足で爪を研いでいるシマシマを見つめていた。
「猫、苦手?」と、ぼくは恐る恐るきいた。
 怜美ちゃんは、シマシマから目を離すことなくゆっくりと首をふる。
「寒いから早く入って」と言い終わる前に、怜美ちゃんは顔を両手に埋めて、大きなくしゃみをした。
「早く入って。すぐに部屋を温めるよ」
 だが、彼女は玄関から後ずさりした。目には涙まで浮かべている。
「どうしちゃったの急に。ぼくは、まだなにも……」
 濡れた瞳でぼくを見つめ返す怜美ちゃんは、いやいやというふうにゆっくりと首をふり、続けざまに二度くしゃみをした。玄関に響くその音に驚いたシマシマが、ぼくから前足を離して怜美ちゃんを見ると全身の毛を逆立て、ブワブワにシッポを膨らませて牙をむく。
 怜美ちゃんにケガでもさせては大変だと、ぼくはシマシマを後ろから抱き上げた。それでもまだ毛を逆立て、牙を剥いて怜美ちゃんを威嚇する。
「だ、大丈夫? 風邪、ひいちゃったのかな」みるみるうちに真っ赤になった彼女の鼻を見て、ぼくはおそるおそるたずねた。
「だめなの、わたし」
 怜美ちゃんは鼻をずずっとすすると、グーにした右手で目をこすったものだから、涙にマスカラやアイシャドウが混じって、みごとなパンダ目になった。
「え、どうしちゃったの……」
「だめなの」後ずさりした怜美ちゃんは、また水っぽいくしゃみをした。「嫌いってわけじゃないのよ」怜美ちゃんは威嚇し続けるシマシマに負けないぐらい大きい声でいった。「好きなんだけど、でも、アアレ…猫アレ…ルギーがひど…ひどくて。もうこれ以上」
 言葉の最後は、大きなくしゃみで消えてしまった。怜美ちゃんはくるりと背を向けるとものすごいスピードで走りだした。
「待って! いかないで」
 ぼくは抱えていたシマシマを投げ捨て、彼女の後を追いかけようとした。だが、怜美ちゃんの後を追うより早く、草食獣を襲うライオンのようにぼくの足を両手の爪で掴み、力いっぱい牙をつきたてた。
「キャイ~ン!」負け犬のようにぼくは叫んでいた。

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