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シッソウカノジョ 第十七話

 パソコンのモニターから顔を上げ、窓の外を見ると冬の陽射しは傾きかけていた。我が家の目の前に建つワンルームマンションのベランダには、白いシャツとジーンズが木枯らしに揺れていた。目覚めてからなんとかパソコンには向かったものの仕事は一向にはかどらなかった。昨夜の怜美ちゃんとのことが頭をはなれず、心はひりひりと痛んでいる。透子が好き勝手にやるなら、ぼくだって……と、ちらっとでも考えたのが大間違いだった。
 フォーカスの合わない視線を宙に泳がせていると静子さんの高笑いが蘇る。「てきとうに羽根をのばすなり、新しい彼女をつくるなりしてもいいのよ。ま、あなたにその甲斐性があればの話だけどね」。彼女はそう言い放った。まるで、昨日のぼくのことを見透かしていたみたいに。怜美ちゃんが猫アレルギーでなければ、シマシマが力づくでぼくを引き留めなければ……と考えて頭をふる。違う。たとえ怜美ちゃんと熱い一夜を過ごしたとしても、それはただのセックスだ。翌朝、まだ眠っている怜美ちゃんの顔を見下ろして、透子ではないことを嫌と言うほど思い知らされるだけだ。どちらにせよ、昨日のあれはなにもかも完全に失敗だった。自分の愚かさに大きくため息をつきながらキーボードに突っ伏した。そのとき背後のドアがそっと開いて、シマシマが入ってくる気配がした。だがぼくはキーボードから顔を上げる気力もない。ぼくの背後に忍び寄ったシマシマは、搾り出すような悲しそうな声で「ゴハーン」と、ひと声ないた。
 はっとしてキーボードから顔を上げ、椅子を回転させてシマシマと向き合う。
「やっと暴力以外のコミュニケーション手段を獲得したか。ヒトとは異なる口蓋にしてはみごとな発音だ。ほめてやろう」と言った。
 足元に座るシマシマは、のけぞり気味に胸をはり、じっとぼくの顔を見つめている。
「だが、晩メシは五時だ。まだ四時を少し過ぎたばかりなじゃいか」
 そんなぼくの言葉は、シマシマの耳には全然はいらないらしく、ぼくの足に前足をかけて伸びをすると、背中をウ~ンとしならせ、がりがりとぼくの足で爪とぎをはじめた。
「やめなさい!」と、シマシマの頭を叩く。
 キッとぼくを睨み、シマシマはぼくの足をがぶりと噛んだ。しかもアキレス腱を。
「痛~ッ!」
 ぼくの悲鳴に一瞬ひるんだ様子を見せたが、再び細く透き通った声で「ゴハ~ン」と鳴いて、がぶりと噛みつく。手加減なしだ。
「ゴハンがなければ、お菓子を食べれば良いのに。おほほほほ」ぼくは笑ってみせた。 
 だが、猫はちっともおかしくなさそうだ。ぼくのジョークは猫族にはウケないみたいだ。ヒト族にだって、あまりウケたこともない。シマシマは、これ以上ごちゃごちゃいうならお前を喰う! ってな勢いでぼくを睨みつける。
 それにしても、シマシマが何かをして欲しいとぼくに言うときは、依頼でも哀願でもなく、常に暴力と命令だ。暴力にあっさり屈したぼくは、命令に従うことにした。
 パソコンの画面をセーブして椅子から立ち上がると、猫は満足した様子で口のなかでもごもごと何やらつぶやき、シッポをピンと立ててキッチンまでぼくを先導する。
 冷蔵庫から魚の切り身を取り出すとグリルに入れ、猫のご飯皿を洗い、ボウルの水も新しいものにかえた。そうこうしている間に魚の焼ける香ばしい匂いがキッチンに漂ってきた。グリルのガラスごしに魚の焼け具合を見ていると、すっかり身も心も猫のドレイだなぁという気分になる。
 トイレの砂をかえろといわれれば、すぐにかえる。ドアを開けろといわれれば、素早く開ける。「ゴハ~ン」、といわれれば、こうして仕事の手を止めてごはんの支度をする。そして、シマシマがトイレにいったその足で、ぼくが食事をしているテーブルの上を歩き回っても何も言わない。ぼくが晩飯を食べている皿の全ての匂いをかいでまわっても、ひとつひとつのチェックが終わるまで黙って待っている。
 ぼくだって最初からこうじゃなかった。猫は人間のテーブルに上がってはダメ、と厳しく教え込もうとした。だが徒労だった。言葉の通じる相手じゃない。多分、向こうはヒトのコトバは全て理解している。ただ、人の話しを聞く耳を持たないだけだ。あの三角の耳は飾りなのだ。猫に躾をするどころか、あっという間にぼくが猫に躾られてしまった。猫は見た目は柔らかいけれど、信念は恐ろしく固い。人間同士だったら、ヘトヘトになるまで話し合い、傷つけあい、最後は互いを憎みあって別れているだろう。だが、猫は話し合いなんて無駄なものは一切なし。常に自分の信念を貫きとおすだけだ。彼らに勝てる人間はそうはいない。少なくともぼくは、勝てなかった。
 魚が焼けるとグリルから出して、刻んだ野菜やご飯を混ぜていると、シマシマはぼくを見上げて「早くしろ!」とひと声なく。ぼくのことは動作の鈍い、おつむの悪いヤツだ、ぐらいにしか思ってないんだろう。
「このままじゃ、お前には熱過ぎるだろ」と説明して、ふうふうと冷ましてから猫飯を差し出した。シマシマは「ありがとう」とも「いただきます」ともいわずに皿に頭を突っ込んでガツガツとむさぼる。
 いつもながらもの凄い勢いだ。猫飯を食べるシマシマのこんもりとした丸い背中を見ていてふと思った。透子もまた、ぼくのことをおつむの悪いヤツだと思っていたんだろうか。だからさっさと見切りをつけて出て行ってしまったのか。
 そんなことを考えているうちに、シマシマはあっというまに皿を空っぽにした。一日のうちで最高に楽しいはずの食事の時間を、たった二分三十秒で終えてしまうと、シマシマは「ごちそうさま」も「うまかったよ」とも言わずに、どこかに行ってしまった。
 ぼくは空っぽの皿をじっと見つめ続けた。

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