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シッソウカノジョ 第九話

 頬にかかる猛烈に荒い鼻息を感じて目が覚めた。一瞬、透子かと思った。だが目の前には、びっしりと毛の生えた大きな丸い顔が迫っていた。
「かんべんしてくれよー」毛布を頭の上までひっぱりあげて寝返りを打つ。
 目覚めて最初に見たいのは、透子の笑顔だけだ。しかし、猫はぼくの気持ちなどお構いなしに毛布のすきまから少しでた、ぼくの頭の毛を爪でちょいちょいとひっかく。固く目をつむってやり過ごそうとすると、猫はのしのしとベッドの足元の方へ回り、毛布から出ている足に力いっぱい噛みついた。
 情け容赦ない攻撃に「アンギャァ!」と叫んでいた。「なんの真似だ。こんな時間に」
 シマシマはベッドからドスンと飛び降りると、きれいにお座りをして、ぼくを見上げる。
「遊びならそでやってくれ」と、ぼくは頭から毛布をかぶり、手足を縮めた。
 するとシマシマはまたベッドに飛び上がり、ぼくの身体に馬乗りになると毛布をくわえて右に左にふりながら、鼻息も荒く四股を踏み出した。毛布を貫通して爪が身体に食い込む。
「や~め~て~く~れ~!」
 猫を毛布ごと振り落とそうとした。するとシマシマは、すばやくベッドから飛び降りて、またきれいに前足を揃えて座り、まっすぐな視線でぼくの顔を見上げる。
「なんのつもりだ。やってることはえげつないのに、いやに行儀がいいじゃないか」と、眠くてひっつきそうになる眼をなんとかこじあけて、ベッドに半身を起こして言った。
 シマシマは悪びれるふうもなく、じっとぼくを見上げる。
「メシか? まだこんなに暗いのに? ヒトが寝てようが、お構いなしか」
 ぼくが発した「メシ」のひと言にピンときたのかどうかはわからないけれど、シマシマは丸い目をさらに大きく見開き、頬をパンパンに膨らませてぼくを見る。
「なんでおまえの朝飯のしたくをしなくちゃいけないんだ。ぼくが作ってもらいたいぐらいだよ」
 枕に頭を落とし、毛布をあごまで引き上げる。朝飯といえば、透子の作るフレンチトーストが恋しい。シナモンの香りとたっぷりのメイプルシロップ。それに、熱い紅茶。夢うつつでふわふわとろとろのフレンチトーストを思い出してよだれを流していると、再び足元に重みを感じた。シマシマはベッドに飛び乗り、のっしのっしと枕もとまでやってくる。 なにがあっても起きるものかと、ぼくは固く目をつぶった。こうなったら根くらべだ。身を固くして、ヤツが諦めるのを待った。シマシマは枕もとに座ったまま、その小さな脳みそでなにごとか思案している風だった。このまま諦めてどこかに行ってくれと願っていると、ぼくの鼻の頭に猫のふわふわの毛のやわらかさを感じた。次の瞬間、全身に悪寒が走った。声を出すことさえ出来なかった。シマシマが、ぼくの鼻の穴と穴を隔てる柔らかい部分に、前足の鋭い爪を一本ひっかけていたからだ。ぼくは恐怖で固まったまま、猫と視線を合わせた。
「さあ、どうする?」間違いなく、シマシマの目はそういっていた。無表情だと思っていたヤツの心のうちが、この瞬間から手にとるように理解できた。
「わかった。よくわかったから、その爪をひっこめなさい」ぼくはやっとの思いで言った。
「どうしようかな?」鋭い爪を鼻の穴と穴の間の柔らかい部分に衝きたてたまま、シマシマはほくそえんでいる。
「頼む。ぼくは男前じゃないけど、それでも透子は『笑うと愛嬌があって、悪くない』って言ってくれるんだ。だから鼻の穴がひとつになると困る。頼むから爪をひっこめてくれ」
 完全に優位に立ったシマシマは、にやりと笑ったようにぼくには見えた。そっと爪をおさめるとベッドから飛び降り、「じゃあキッチンに行こうか」というように、得意そうにぼくを見た。ひとつになることを免れた鼻を撫で、ぼくはシッポを立てて尻の穴を丸見えにした猫のあとにしぶしぶ従った。だが、無理矢理起こされたせいで足元もおぼつかない。シマシマは何度も振り返り振り返り、ちゃんとぼくがついてきているかを確かめる。まるで妖術を使う猫に操られたゾンビにでもなった気分だった。
 キッチンにたどり着くと、冷蔵庫から取り出した魚の切り身をグリルにいれ、大きく息をついた。シマシマはキッチンのテーブルの上で前足を揃え、ご丁寧にシッポを巻き付けて座り、「よしよし、いいだろう」といった顔で見ている。まるで現場監督か料理長といったところだ。
 ぼくは魚が焼けるまでコーヒーでも飲もうと、シンクに置かれたままのカップを洗っていて、脛の激痛に飛び上がった。いつのまにかシマシマはテーブルを降りて、ぼくの足にかじりついていた。
「痛ッ。ちょっと待てよ」と、ぼくはシマシマに説明する。「今、おまえのために魚を焼いてるだろ。焼きあがるまでコーヒーを飲もうと思っただけだよ。焼けるのが遅いのは、ぼくのせいじゃない」
 シマシマは口の中でもごもごと文句を言う。早くしろと言うのだろう。
 結局、ぼくはコーヒーを飲むことも許されず、底冷えのするキッチンで震えながら、いちいち焼け具合を報告し、魚が焼きあがるとグリルから取り出して食べやすい大きさにほぐし、フウフウと冷ましてから猫用のボウルに移し、シマシマの前に差し出した。待ってましたとばかりボウルに顔を突っ込み、シマシマはガツガツと食べはじめる。
 ヤツの丸っこい背中と牙の跡も生々しい傷だらけの自分の足を見比べ、すっかりケダモノの奴隷になってしまったと思った。恐怖と暴力による支配に屈したぼくは、這うようにして二階に上がるとベッドにもぐりこみ、深く暗い沼の底に沈んでいった。

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