シッソウカノジョ 第十話

 次に目が覚めたときは、とうに昼を過ぎていた。カーテンを開けると空は晴れ、陽射しは寝ぼけた目にまぶしいほどで、今日は寒さも一段落といった感じだ。それなのにぼくは、へんな時間に無理やり起こされたせいで、頭はどんよりとして、身体は濡れた砂が詰まったようにだるい。膝から下は爪と牙で傷だらけにされ、毛布もケバケバだ。
 そもそも猫を家にあげたのが間違いだったと激しく後悔した。それもこれもみんな透子が悪いんだ。透子が姿を消してからというもの、ぼくは軸のずれたコマのように、いびつな放物線を描いて、あっちでぶつかり、こっちでぶつかり、ヘマばかりしている。
 死にそうな脳にカフェインで活を入れ、死ぬ気でパソコンに向かう。透子やシマシマに振りまわされて、もう何日も手付かずになっていた仕事の締め切りは、明日に迫っているというのにインタビュー記事は、まだ草稿もできていない。
それでもとにかく目の前の仕事を片付けようと、取材メモを頼りにパソコンに入力を始めた。だが文章の羅列でいっこうに原稿の体をなさない。寝不足のせいで集中力がまるでなかった。何度もメモを確認して、キーボードを叩きながらエナジードリンクをがぶ飲みする。
 どのくらい経っただろう。ようやく形をとりはじめた原稿を読み直し、さらに細かく手を入れていると背後でドアが開く気配がした。時計に目をやると、きっかり五時。シマシマは音もなく近寄ってくるとぼくの足に身体をすりつけてくる。思わず舌打ちした。今、作業を中断したら、再び思考を仕事モードに戻すのが大変だ。多少メシの時間が遅れたって、死ぬわけじゃないだろう。でも、これが完成しなければ、ぼくは死ぬんだ、と自分に言い訳をして作業を続けた。
だが、こっちが無視しているとわかると、シマシマは机の上に飛び乗ってきた。
「こらこら。降りて、降りて」 
 ぼくとしてはかなり友好的な態度で、シマシマを抱きかかえて床におろした。それなのにシマシマはすました顔をして、すぐにまた机の上に飛び乗ると、その大きな身体でモニターの前に立ちはだかる。おまえのくだらない仕事より自分の食事を先にしろと、身体全体で主張していた。おろしては飛び上がり、飛び上がってはおろす。ぼくらは無言でそんなことを繰り返した。だが、猫ってやつは諦めるってことがないようだ。仕事は進まないし、気は散るし、時間はないしで、ぼくもだんだん疲れてイライラしてきた。
「いい加減にしろ。あっちへ行け、バカ猫」と、つい大きな声を出して、机の上で邪魔をするシマシマの頭を平手で叩いた。
 その瞬間、化けものじみた「ミギャアアア~」という叫び声とともに、ボンッという大きな音がとともにおモニターが強烈な光を放ったかと思うと、すぐに真っ暗になった。シマシマはシッポを倍ぐらいの大きさに膨らませ、ものすごい勢いで走り去った。
 あとに残ったのは不吉な沈黙だった。ぼくはぼうっとして、なにも考えられなかった。少し経ってからやっと、せっせと書いた原稿は? と考えて、思わず顔が歪む。くずれそうな気持ちをどうにかたて直して、モニターのスイッチをONにする。
 反応はない。だが再起動させれば、少し前にセーブしたところまではデータが残ってるはずだという希望を持ちながら、頭のかたすみでは「なにもかも台無しだ」と声がする。背中と脇に冷や汗をかき、口のなかはカラカラだ。ゴクンとツバを飲み、祈るような気持ちでパソコンの起動ボタンを押してみる。パソコンはうんともすんともいわない。万事休す。全身から血の気が引いて、目の前が真っ暗になる。
 「落ち着け」と、声にだして自分に言い聞かせた。さっきまで機嫌よく温風をはきだしていた暖房器が沈黙しているのに気づいた。電話やファックスの待機中を示すランプも消えている。ためしにテレビをつけようと、コントローラーのスイッチを押す。こちらも反応ナシ。窓の外に目をやると、隣の家からは明るい光が見える。
 停電? しかも、うちだけ? しかも締め切り前のこんなときに限って? 頭皮の下を無数の小さな蟲が蠢いているようだった。目を固く閉じ、絶叫とともに、両手の指を髪に突っ込んで、わしわしと掻き毟った。堰を切ったように絶望感が襲ってきた。最悪だ。絶望だ。呪われてるんだ。大声で叫んでいた。やることなすこと、全てダメなんだ。パソコンは完全に死に絶え、データは消滅。残された時間ない。透子はぼくを捨て、猫もぼくに辛く当たる。このまま世界が終わってしまえばいい。人類が滅んでしまえばいい。明日がこなければいい。世界は今、この瞬間、砕け散り、消し飛んでしまえばいい。ぼくは身体をくねらせ、歯軋りして床の上に身を投げ出してのたうちまわった。皮膚の下を這いまわる蟲の数は増える一方だ。絶望と痒みのあまり、涙があふれ、痙攣のようにぼくの内側からなにかわけのわからない固まりがこみあげてきた。その固まりは身体からあふれだし、ぼくは声をあげて怪鳥のようにキーキーと叫んでいた。

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