シッソウカノジョ 第十三話
風が窓を叩く音で目がさめた。部屋のなかはひんやりとしている。ぼくはベッドの中からあたりを見回し、周囲に動くものがないことを確かめる。そして毛布を鼻まで引き上げ、ベッドの温もりを味わいながら再び目を閉じる。なんてすばらしい感覚。これこそ、ぼくがのぞんでいたものだ。だれにも邪魔されることなく好きなだけ眠り、心穏やかに日々を過ごす。そんなささやかな自由を夢と現のはざまでそっとかみしめながら、昨日の自分の決断の正しさに、自然と頬が緩んでくる。もう寝入りばなを無理やり叩き起されることも、鼻の穴と穴の間の柔らかい部分に爪をたてて脅されることもない。明け方のキッチンで震えながら魚を焼いたり、ササミを茹でたりしなくて済むんだと思うと、めちゃくちゃうれしかった。多分、あいつはあいつでうまくやっているだろう。ここで、ぼくといがみあって暮らすより、自由に生きるほうが、あいつにとってもいいに決まっている。そう自分に言い訳をしながら甘い眠りに落ちていこうとするそのとき、ぼくは思わず「あぁ」と叫んでベッドから飛び起きた。爪をたてて背中をバリバリと掻きむしる。皮膚の下をぞわぞわと蟲が動き出し、背中から首へ、そして胸へと移動する。そのうち皮膚が破れ、じゅくじゅくと体液がしみだし、やっと痒みがおさまった。原因はわかっていた。猫にかまけて、透子のことはできるだけ考えないようにしていたせいだ。
もう観念するしかない。ベッドを出るとシャツを脱ぎ捨て、身支度を整えると食事もとらずに家を出た。歩きながら、なんと切り出したものかと考える。「実は彼女が、家を出て行ってしまったんです」っていうのか? それじゃあまるで、ぼくに愛想を尽かして出て行ったみたいだ。いや、実際そうなのかもしれない。そんなことを考えているうちに、近所の交番まで三分とかからなかった。素っ気無いコンクリート打ちっ放しの建物は、公衆トイレのようで、とってつけたようなアルミの引き戸だけがやたらと立派だ。サッシの上半分のガラス窓からなかを覗くが、だれもいない。
「すみませ~ん」と、遠慮がちに声をかける。
返事もなければ、だれかが出てくる気配もない。警察官はパトロール中なのだろうか? 壁には詳細な地図とカレンダーと、日に焼けて黄色く変色したひったくり防止のポスターが貼られていた。頑丈そうなスチール製のデスクが二つ向かい合わせに置かれ、その上にのっぺりとした電話機が一台あるだけで、交番の中はひどく閑散としている。そのとき、ふと電話のそばのプラスティックプレートが目に入った。【警察官が不在の場合は、電話は自動的に○○警察署に転送されます。○○警察署の警察官が対応にあたりますので、用件をお話しください。なお、緊急の場合は、一一○番通報をお願いします。】と、書かれていた。
ううっ、と唸る。まさかこんなシステムになっているとは。不意を突かれたぼくは、耳の後ろの皮膚の柔らかい部分をバリバリとかきむしった。
まったくの無駄足だった。結局、交番から電話をかけることもできず、逃げるようにして家に帰ってきてしまった。静子さんから念押しされるまでもなく、ぼくには索願いひとつ満足に出すことができない男なんだと思うと情けなかった。
自宅に戻って天を仰ぎ、だれでもいいから助けてくれ~と叫びながら、二の腕に爪を立てて思いっきり掻いているときチャイムがなった。腕を掻く手をとめて、もうだれかに願いが聞き届けられたのか? と考える。階段を駆け下り、勢いよくドアを開けて確信した。ぼくは軽く誰かに呪われてるんだな、と。風が窓を叩く音で目がさめた。部屋のなかはひんやりとしている。ぼくはベッドの中からあたりを見回し、周囲に動くものがないことを確かめる。そして毛布を鼻まで引き上げ、ベッドの温もりを味わいながら再び目を閉じる。なんてすばらしい感覚。これこそ、ぼくがのぞんでいたものだ。だれにも邪魔されることなく好きなだけ眠り、心穏やかに日々を過ごす。そんなささやかな自由を夢と現のはざまでそっとかみしめながら、昨日の自分の決断の正しさに、自然と頬が緩んでくる。もう寝入りばなを無理やり叩き起されることも、鼻の穴と穴の間の柔らかい部分に爪をたてて脅されることもない。明け方のキッチンで震えながら魚を焼いたり、ササミを茹でたりしなくて済むんだと思うと、めちゃくちゃうれしかった。多分、あいつはあいつでうまくやっているだろう。ここで、ぼくといがみあって暮らすより、自由に生きるほうが、あいつにとってもいいに決まっている。そう自分に言い訳をしながら甘い眠りに落ちていこうとするそのとき、ぼくは思わず「あぁ」と叫んでベッドから飛び起きた。爪をたてて背中をバリバリと掻きむしる。皮膚の下をぞわぞわと蟲が動き出し、背中から首へ、そして胸へと移動する。そのうち皮膚が破れ、じゅくじゅくと体液がしみだし、やっと痒みがおさまった。原因はわかっていた。猫にかまけて、透子のことはできるだけ考えないようにしていたせいだ。
もう観念するしかない。ベッドを出るとシャツを脱ぎ捨て、身支度を整えると食事もとらずに家を出た。歩きながら、なんと切り出したものかと考える。「実は彼女が、家を出て行ってしまったんです」っていうのか? それじゃあまるで、ぼくに愛想を尽かして出て行ったみたいだ。いや、実際そうなのかもしれない。そんなことを考えているうちに、近所の交番まで三分とかからなかった。素っ気無いコンクリート打ちっ放しの建物は、公衆トイレのようで、とってつけたようなアルミの引き戸だけがやたらと立派だ。サッシの上半分のガラス窓からなかを覗くが、だれもいない。
「すみませ~ん」と、遠慮がちに声をかける。
返事もなければ、だれかが出てくる気配もない。警察官はパトロール中なのだろうか? 壁には詳細な地図とカレンダーと、日に焼けて黄色く変色したひったくり防止のポスターが貼られていた。頑丈そうなスチール製のデスクが二つ向かい合わせに置かれ、その上にのっぺりとした電話機が一台あるだけで、交番の中はひどく閑散としている。そのとき、ふと電話のそばのプラスティックプレートが目に入った。【警察官が不在の場合は、電話は自動的に○○警察署に転送されます。○○警察署の警察官が対応にあたりますので、用件をお話しください。なお、緊急の場合は、一一○番通報をお願いします。】と、書かれていた。
ううっ、と唸る。まさかこんなシステムになっているとは。不意を突かれたぼくは、耳の後ろの皮膚の柔らかい部分をバリバリとかきむしった。
まったくの無駄足だった。結局、交番から電話をかけることもできず、逃げるようにして家に帰ってきてしまった。静子さんから念押しされるまでもなく、ぼくには索願いひとつ満足に出すことができない男なんだと思うと情けなかった。
自宅に戻って天を仰ぎ、だれでもいいから助けてくれ~と叫びながら、二の腕に爪を立てて思いっきり掻いているときチャイムがなった。腕を掻く手をとめて、もうだれかに願いが聞き届けられたのか? と考える。階段を駆け下り、勢いよくドアを開けて確信した。ぼくは軽く誰かに呪われてるんだな、と。
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