シッソウカノジョ 第十五話
「さあ、これでモニターも繋がった。再インストールも完了。残念ながらデータの修復は出来なかったが、当然、バックアップはとってあるよな」
パソコンのモニターから顔を上げた篠原君が、ぼくに向かって言った。
ぼくは小さな声でこたえる。「実は……とってないんだ」
「これだから素人は」篠原君は吐き捨てるように言う。「いつもおれがいってるだろ。まめにバックアップをとれって」
「今度からはそうするよ」
「『ああ、そうするよ』『今度からする』『次からする』って、おれは別にどっちでもいいんだけどな。どうせお前のデータなんだから」
「今度から、絶対、バックアップをとります」怒りを抑えてそういうのがやっとだった。
「いや、むしろおれはバックアップもとらずにのほほんとして日々を過ごし、そのくせなにかことが起こると、なす術もなくうろたえる人間を見るとうれしくなるんだ。ほんとさ。そんなやつの困った顔をみるのがおれの唯一の趣味みたいなもんなんだからな」篠原君は残忍な笑顔を浮かべた。
あいかわらず嫌なやつだ。困っている人間を見てうれしくなるなんて、性格が歪んでるとしか思えない。だが、ぐっと耐えた。なにしろ機会オンチのぼくは、パソコンその他の情報機器関連の全てのメンテナンスを篠原君に頼り切っているのだ。彼に見放されたら、手も足も出ない。それに、今回みたいにぼくがピンチに陥ったときは、いつだってすぐに駆けつけてきてくれるんだから決して悪いやつなんかじゃない。ただ心が少し歪んでいるだけなんだと自分に言い聞かせて、ぼくはなんとか怒りを鎮めた。
「悪かったね、休日に呼び出して。でも助かったよ。一時はどうなるかと思った。マニュアルを読んでもチンプンカンプンだし」と、ぼくは友好的な笑顔を浮かべて言った。
「そうだろうな」
彼の言葉に、また少しイラッときたけれど、ぼくは言った。「サポートセンターに電話してもつながらないし、やっとつながったと思ったら、担当者とはまともに言葉が通じないときてる。お手上げだったんだ」
そこまで言ってから、言葉が通じないのは、別に犬猫だけじゃないなと自分でも思った。
「今日は透子さんの姿が見えないけど、どうしたんだ?」篠原君が聞いた。
「旅行中なんだ。まえにも言ったじゃないか」
「聞いてない」
ぼくは曖昧に笑ってみせた。篠原君にだけは、透子が姿を消したことを死んでも知られたくなかった。この男の性格からいって、どんなことを言われるかわかったもんじゃない。
「今度はどこに?」篠原君はなおも聞く。
「 …ベトナム」
「前もベトナムだったな」
咄嗟に出た嘘を見破られたのかと、はっとして篠原君の顔を見たが、別に疑っているわけではなさそうだった。
「前もベトナムで、今度もベトナム。透子のことはいいからさ、ビールでも飲みに行こう。お礼におごらせてもらうよ」
「悪いが、今日はこれで失礼する」
「約束でもあるのか。新しい彼女とか? その娘、かわいい?」
「それはまだ内緒」篠原君は意味ありげに笑っている。「透子さんが帰ってきたら、そのときは三人で飲もう。今日の緊急呼び出し料と修理代は、それまで貸しにしとくよ」
篠原君が上着を着て、玄関の鏡で額に垂れた髪を整えていると、それまでちらりとも姿を見せなかったシマシマがどこからともなく現われた。そして、吸い寄せられるように篠原君の足元に駆け寄り、からだをくねらせる。まさか油断させておいて、手を出したところを見計らって客人を攻撃するのではないかと、シマシマを捕まえようと一瞬思った。だが猫にさわって噛まれたとしてもぼくのせいじゃない。心のなかで意地悪に笑いながら、黙って成り行きを見守った。すると、意外なことに篠原君も擦り寄ってきたシマシマを見て、うれしそうにしている。彼のおしゃれな黒いパンツが猫の毛だらけになっているというのに、まったく気にするそぶりがない。それどころか、「よしよし」とか言ってシマシマを抱き上げ、「いつから猫を?」と言いながら、慣れた手つきであごを撫でている。
「……ちょっと前」と、曖昧に答えながら、彼らがじゃれあう姿を見て複雑な気分だった。
この家にはじめてきたときのシマシマは、ぼくには少しも身体を触らせようとしなかった。今でも、なにか気に入らないことがあると牙をむき、爪を立てるくせに、篠原君にはこうして黙って抱かれて、甘えたように喉までならしている。
「毛並みがフワフワでお日様の香りだ。これだから猫はたまんないんだよな」と、笑いながら、篠原君は猫の腹に顔をうずめる。「知ってるか? 裸で猫を抱くと気持ちいいんだぜ。もうやってみた? ふふふふ」
ぶるぶると首を振った。ぼくがそんなことをしようものなら、ヤツの鋭い牙と爪で八つ裂きにされるに決まっている。
「一度、やってみろよ。毛皮の魅力がわかるから」
にやりと笑ってから、篠原君は名残惜しそうにシマシマを床におろした。そして、玄関から出ていこうとドアを開けると、「遊びにきてあげたよ、シマシマ」と言って、座敷わらしが飛び込んできた。
すぐにドアを開けたのがぼくではないことに気づいて、座敷わらしは口をぽかんと開けて篠原君を見上げていた。
「こんにちは」篠原君はにこやかにあいさつをする。
そして、ぼくの方を振り返り、篠原君は意味ありげに眉をあげてみせた。「とてもキュートなガールフレンドだな。しかもすごく年が離れているときている」
「あの…あたし…また今度…遊びに来てあげる」篠原君とその後ろにいるぼくを見て、座敷わらしが玄関から出ていこうとする。
「大丈夫ですよ、おじょうさん。ぼくはもう帰るところです」すかざす篠原君はいった。
篠原君が女性に対しては常に礼儀正しいことは知っていたが、小学生を相手にしてさえ笑顔でおじょうさんと呼ぶことに心底あきれた。
「じゃあ、ぼくはこれで。透子さんが帰ったら必ず連絡しろよ」そう言い残すと、座敷わらしに微笑みかけて篠原君は出ていった。
ぼくと座敷わらしとシマシマは、玄関に並んで彼の後ろ姿を見送った。
「あの人、おじさんの友達?」
彼の姿が見えなくなると、座敷わらしは赤い頬をさらに火照らせてぼくをみる。ぼくは黙ってうなずいた。
それにしても猫や女子小学生の篠原君に対するこの評価の高さはなんだ。ぼくは、少し不安になった。これって、透子が出ていったことと関係あるんだろうか。やっぱり、ぼくに問題があるってことなんだろうか……。そう考えはじめると、急に左の手の平に猛烈な痒みを感じた。ぼくは左手を思いっきり広げると、右手の爪を立ててバリバリと手のひらを掻いた。気持ちいいと感じたのはほんの二、三秒。痒みを通り越して、熱さを感じるころには、薄い手のひらの皮はあっという間に破れてうっすら血がにじむ。それでもおさまらない痒さに爪を立て続けると、ヒリヒリ痛みはじめる。ジュクジュクした血と体液をジーパンでぬぐって、やっとほっとした。
「もうすんだ?」座敷わらしが聞いた。
ぼくは黙ってこっくりとうなずいた。
「あたし、ココア飲みたいな」
ぼくはまた、黙ってこっくりとうなずいた。そうじゃないかと思ってココアを買っておいたのだ。
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