シッソウカノジョ 第十九話
まん丸に見開かれた魚の目が、こっちを見ていた。口を大きくあぁんと開けて、何か切々と訴えているようにも、自分の運命も知らずに朗らかに歌っているようにも見えた。その魚の頭が、鋭い刃でザンと音を立てて切り落とされた。
夜、九時。ぼくは一人でビールを飲みながら、テレビの料理番組に見入っていた。みごとな切れ味の包丁とあざやかな手際で、みるみるうちに魚はかたちをかえていく。銀髪を結い上げ、縞の着物の上に皴ひとつない割烹着を身に着けた先生の横では、赤いエプロンをつけた若い男性のアシスタントが、長く細い指で魚をこわごわ触っている。音を消したテレビをぼんやりとながめながら、ぼくはアルミホイルの皿からマカロニグラタンを機械的に口に運び、ビールで飲み下す。
透子がいるときは、こんなことは絶対なかった。ぼくらは二人で暮らし始めた頃、食事のときに、ぼくがなにげなくテレビをつけたら、それまで上機嫌だった透子が、突然、テレビのコンセントを引き抜いた。
「テレビを観ながら食べるなんて!」彼女は吐き捨てるようにいった。「今度そんなことしたら、今後一切食事は作らない。テレビも窓から投げ捨てる。テレビがなくっても、たしは全然困らないんだから」
彼女なら本当にやりかねない。そう思って、それ以来食事のときはテレビを観なくなった。だが、こうして一人になってしまうと、テレビがないとやっていられない。別に番組が面白いと思って観ているわけではなかったが、少なくとも自分以外にも生きている人間がこの世界にいると感じることができた。近頃は、目が覚めるとテレビのスイッチを入れ、寝るまで点けっぱなしだった。
それでも眠るときはスイッチを切らざるをえない。
ぼくはベッドの暗闇のなかで、隣で眠っている透子の静かで規則的な寝息を聞いているのが好きだった。その安らかな寝息を聞いていると、ぼくも穏やかで温かな気持ちになれた。透子がいなくなった今もまだ、ぼくは静まり返った家のなかで無意識のうちに彼女の気配を探していた。うとうとと眠りに落ちる寸前、いるはずのない彼女の寝息に耳をそばだてているときに、不意に壁や天井が軋んだりすると、もうそれだけで心臓が縮みあがり、ベッドから飛び起きたことが何度もあった。
ナーバスになってるのだと、自分に言い聞かせてはみたが、神経はささくれ立ち、眠れない日が続いた。
だが、ある朝、キッチンでシマシマのササミが茹であがるのを待ちながらふと思った。「これは本当にただの気のせいだろうか?」と。本当に見られていないなんていう証拠はどこにもないんじゃなだろうか。足元ではシマシマが早くしろ、と身体を摺り寄せる。「まだだよ」と声をかけながら、「ストーカー」という言葉が不意に口をついて出た。
一旦言葉にしてしまうと、ストーカーの存在は急に現実味を帯び、動悸が激しくなった。本物のストーカーなら、ぼくではなく、透子を狙っていたと考えるのが普通だろう。透子が姿を消したのは、誰かに狙われていたからじゃないのか。やっぱりすぐにでも警察に連絡すべきだったんだ。そう考えながら、シャツのなかに手をつっこんで、力任せに背中を掻き毟った。皮膚の下をもぞもぞと無数の虫が歩き回っているようだった。だが掻けば掻くほど虫の数は増え、痒みは身体中に広がっていく。もうシマシマのことなんてかまってられない。一刻も早く警察に電話だ。ぼくは背中を掻きながら、片手でテーブルに置いたスマホに手をのばした。その瞬間、待ち構えていたようにリビングの固定電話が鳴った。びくっとして電話を見る。聞きなれた電子音が、いつもと違って禍々しく感じるのは気のせいだろうか。
鳴り止むことのない電話の受話器をとり、ゆっくりと耳にあてる。
「やあ、元気か? おれだ」電話の相手は言った。
「おれってだれだ。オレオレ詐欺かもしれないから、まず名前を名乗れよな。それに、どうして家の電話にかけてくるんだ。いつもはスマホにかけるくせに」
妙に能天気な篠原君の声にいらいらして、ついぶっきらぼうに返した。
「スマホで検索して最初に出てきたからつい……っていうか、なんでそんなに機嫌が悪いんだ。透子さんが帰ってきて、喧嘩でもしたのか」
透子が帰ってきたって!? どういう意味だ。頭のなかがぐるぐるする。
「おい、聞こえてるか?」篠原君は言った。「この前、透子さんが帰ってきたら、三人で飲みにいこうっていったよな」
篠原君の声がひどく遠くに聞こえる。ぼくは、言葉にならない曖昧な返事をした。
「おい、本当にどうかしたのか? 透子さんとなんかあったんじゃないだろうな」篠原君は心配そうな声だ。
「いや、別に……」ぼくは否定した。「どうもしない。この電話、調子が悪いんだ」
「そういえば、少しノイズが入るみたいだな。それでだ、今週末、透子さんの予定はどうかと思って電話したんだ。良ければ、店に予約いれとくぞ」
「まだ透子は戻ってないんだ」
「戻ってないだって?」篠原君の声がワンオクターブ上がった。
「まだ帰ってない。何度も言わせるなよ」ぼくは嘘をつきとおすことに決めた。「どうして透子が帰ってるなんて思ったんだ?」
「おとついだったかな、本屋で彼女をみかけたんだ。あいにくおれはレジで支払いをしてたから、声をかけそびれて……。彼女、すぐに店を出ていったみたいだし。だからこうして電話したんだ」
「多分、透子に似た人だよ」
「まさか。おれが見まちがえるわけない」
「実際、いるんだ。ご近所でそっくりの人が。年齢も背格好もそっくりでね。いつだったか、透子が庭仕事をしてたら、近所の人が家の前を通りがかって、驚いた顔をするから不思議に思ってたずねたら、『さっきまで銀行にいたじゃないの。いつの間に私を追い越したの?』って、狐にでもつままれたような顔をしてたよ。それはもうよく似てるらしくて、どれぐらい似てるかっていうと、顔だけじゃなくて、着てるものや持ちものの趣味までそっくりっていうんだ。それだけじゃない。透子の髪が長いときは、その人も長くて、透子が髪を切ると、その人も短くするっていうんだ。『それはきっとドッペルゲンガーだ』って透子も笑ってたよ。しかもドッペルゲンガーを見たのは一人や二人じゃないんだ。きみが見たのもきっとそのドッペルゲンガーだ。この話の唯一の欠点は、真実なのに話せば話すほど嘘くさく聞こえるっていうことなんだ」ぼくは一気にまくしたてた。嘘をつくと決めたからには、どんなに嘘くさくても、とにかく強く言い切るしかない。それが嘘をつくときのコツだ。
「そういわれると、実はおれもチラッと遠くから見ただけだから……。直接話をしたわけでもないし、連れもいたしな。やっぱ、あれは透子さんじゃなかったのかなぁ」
透子に連れだって? ぼくは、カマをかけてみた。
「連れっていうのは、少し年配で背の高い、ちょっと猫背ぎみの男だったんじゃないか。いつもドッペルゲンガーとセットで出てくる男なんだよ」
「年配? いやぁ年配には見えなかった。おれたちぐらいじゃないかな。二人はなんだか言い争って……というのは言いすぎかな。話をしているうちにだんだん興奮して声が大きくなったというべきか。後ろ姿だったから、おれは最初、てっきりおまえと透子さんだと思ったんだ。でもよく見たら、男の方はおまえとは似ても似つかないし……。それもあって、声をかけそびれたんだ」篠原君はまだ少し納得がいかないようだった。
これ以上何か言えば確実にバレる。そう思って、ぼくは黙っていた。
「それで、ホンモノの透子さんはいつ帰るんだ?」と篠原君が聞いた。
透子がいつ帰ってくるかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。何と答えたものか。
「うあああぁ」しばらくの気まずい沈黙のあと、出し抜けにぼくは叫んだ。「今、ピンポンが鳴ってるんだ。宅配便かもしれない。切るぞ。またこっちから連絡する」
篠原君はこんな嘘臭い芝居を不審に思ったかもしれないけれど、なんとか切り抜けた。そう思った瞬間、ぼくは床にどっと崩れ落ちた。これ以上は心臓が持たない。
とにかく透子は誘拐されたわけでも、監禁されているわけでもなかった。ぼくの知らない男のもとに転がり込んだっていうのは、ある程度予想していたことなのに、こうして話を聞くと、やっぱり打ちのめされる。しかも、姿を消すなら消すで、男と二人でぼくの目の届かないところへいけばいいものを、なんで近所にいるんだ。透子がなにを考えているのか、さっぱりわからない。
確かに出会ったときから、透子はぼくの想像を超えた存在だった。いつもなにかに突き動かされるように突っ走る。そんなところもぼくは大好きだった。彼女のすることや考えることは、ぼくにとって新鮮で、透子は今までのぼくのつまらない人生のなかで、はじめて手にする新鮮な驚きと歓びだった。だけど、もうぼくの手には負えない。彼女を繋ぎとめておくことは、ぼくにはできなかった。それは最初っから薄々わかっていたことだった。ぼくなんかには無理だったんだ。後悔と苛立ちと混乱の渦に飲み込まれ、うめくことしかできない自分が情けなかった。両手で頭をかきむしり、床の上をごろごろとのたうちまわった。ハゲるんじゃないかと不安になる頃、やっと皮膚の下を右往左往していた蟲がどこかにいなくなって、ふと思った。警察に失踪届けをださなくて、本当によかったと。
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