シッソウカノジョ 第八話
「これじゃあだめだ。ぜんぜんっだめだ」
ぼくは鼻血が止まるのを待って顔を洗い、歯を食いしばって靴下を脱ぎ、絶叫を繰り返しながらガラスの破片を抜き取った。血を洗い流して、応急処置としてメディカルテープをきつく巻き、鼻血がべっとりとついたシャツからセーターに着替えると家を飛び出した。
痛む足をかばいながら交差点をわたり、ドラッグストアと銀行の角を曲がって、足を引きずりながらさらに北へ四分。子犬の看板が掲げられた店のガラス戸を押した。
平日の午後だというのに、店はにぎわっていた。いつもウィンドウ越しにちらっと見るだけで、まさか自分がペットショップに足を踏み入れる日が来るなんて想像もしていなかった。入口には大きな水槽がいくつも並び、揺れる水草のなかを見たこともない色をした魚がたゆたっている。ふと目に留まったプライスカードのゼロの数に驚愕したが、今はこんなことに気を取られている場合じゃないと自分に言い聞かせる。奥に進むとフェレットやウサギ、ハムスター、カメやイグアナ、犬、猫、そして、小さな猿までいた。地方のさびれた動物園より見事なんじゃないかって思うほどのラインナップだった。動物だけじゃない。ペットの洋服やバッグ、クッション、トイレ、おもちゃ、食器、ビタミン剤、ヒーター、翻訳機、香水、ネックレスまで揃っている。とにかく必要とか、不必要とかの問題じゃなく、考えられる限りの贅沢品が並んでいた。半ば呆れ、半ば感心しながら、店内を右に左に扇風機のように首を振りながら猫関連の棚を探して店内をさまよった。
やっとみつけたキャットフードのコーナーを前に、ぼくは薄い笑いを浮かべるしかなかった。長さ十メートル、高さ二メートルはあろうかという棚の上下、左右、びっしりとキャットフードが並んでいる。猫の餌に、なんでこんなに種類が必要なのか、わけがわからない。小さな缶詰、パウチパック、袋に入ったドライフード。そして子猫用、成猫用、老猫用、ダイエット用、和風、洋風、懐石風、最高級、無添加、自然派、毛玉を吐かせる、医師がすすめる……、ありとあらゆる味と種類と用途にあわせた様々なバリエーションのキャットフードがこの世界に存在するということを今日初めて知った。だが、どれを選べばいい? ここにくればなんとかなると思って足の痛みをこらえてきたのに……。じんわりと額に汗がにじんでくる。
そのとき、はっとひらめいた。猫用とはいえ、食べ物であることにかわりはない。だとしたら、やっぱり決め手は味だ。だが、ここで人間のぼくが、パッカンと猫缶のふたをあけて、指をつっこんでペロリンと嘗めたり、バリッと袋を破って、一握りを口にほうりこんでモサモサとむさぼりはじめたら、狂ってるヒトと思われるにちがいない。ここはデパ地下とは違うのだ。とりあえず、目の前にある「本日のサービス品。大特価!」と書かれた商品をいくつかつかんでレジに向かった。ついでにレジ脇にあったおもちゃもひっつかんで支払いを済ませた。
家に戻ると、やっぱり猫は冷蔵庫の上にいた。キッチンの窓を開けておいたが、そんなことでは出て行くはずもなかった。相変わらず前足をくにゅっと曲げて胸のなかに入れ、身体を大きく膨らませてうずくまっている。しかもキッチンのなにもない空間をじっと見つめたままだ。
ぼくはつとめて陽気な風を装って、猫に聞こえるように鼻歌まで歌いながら、買ってきたばかりのキャットフードの缶を開けて皿に盛り、なるべく猫の見えやすい場所に置いた。そして、自分のためにコーヒーをいれ、リビングへ移動するとソファに腰かけ、タブレットを手に取り、猫のことなどまるで気にしていないようにふるまった。
ヤツは昨日ミルクを飲んでから何も食べていないのだから腹ペコのはずだ。干からびたハムじゃあダメかもしれないけど、猫専用の食品にならすぐに食いつくにきまっている。お腹がいっぱいになれば、自然と動きも鈍くなるだろう。そうなったらこっちのもの。あとは首根っこをエイッと捕まえて、ドアからポイ。鍵をガチャンとしめてバイバイだ。
ぼくは完璧な計画に心のなかで、くふふふふっと笑った。今ごろは、きっと猫の大好きな香りがキッチンいっぱいにただよって、ヤツは一刻も早く食べたくてうずうずしているだろう。さあ早く冷蔵庫から降りてこい。ガツガツとご馳走に食いつけ! そう念じながら、猫に気づかれないようにタブレットごしにキッチンをのぞいた。
我が目を疑った。猫は冷蔵庫の上で、さっきとまったく同じ格好のまま、虚空の一点をひたすら見つめている。どうして食べない! まさか、犬用だったとか? 慌ててキッチンに走り、缶のラベルを確かめる。間違ってなんかいない。猫用のマグロの白身に名古屋コーチンの入った豪勢なキャットフードだ。もしかして、今は腹一杯なのか? いやいや、昨日からなにも食べていないんだ。腹がへってないわけがない。
まあいい。こんなこともあろうかと、何種類かのエサを用意しておいたんだ。さっきのはたまたま気に入らなかっただけだ。今度こそと、”猫も納得。 ヘルシー、ビューティー、 テイスティー”と、陳腐なコピーが書かれたドライフードを手にとり、ボウルに赤や青の魚の形をした粒々を山盛りにした。そして、今度はテーブルの上に置いた。
だが、猫はぼくのことなど目に入らないのか、それとも単に無視しているだけなのか、そのへんがよくわからないけれど、相変わらず動く気配を見せない。とりあえずエサだけを残して、ぼくはキッチンから出た。
それから十分。猫が餌に食いつくのを今か今かと待ったが、やつはまったく餌に興味を示さない。猫は相変わらず、澄ました顔をして、前足を胸のなかに入れて丸くなっている。信じられない。食欲をそそる匂いとかしないのか? 鼻がバカなのか? いや、ハムの匂いは嗅いでいた。わけがわからない。計画は完璧だったはずなのに。ぼくは髪の毛を両手でガシガシと掻き毟った。
そのときはじめて、猫がぼくにチラリと視線をよこした。だが、ビー玉のような瞳と、びっしりと毛に覆われたその顔からは、何の感情も読み取れない。なにが悪かったんだ。エサが悪いのか? 超特価だったから? わからない。諦めかけそうになったとき、そういえば、もうひとつ買い物をしていたのを思い出した。
三十センチほどのプラスティック製の棒の先から伸びた長い糸の先に、ウサギの毛で作ったネズミを付けたおもちゃだ。手のひらにのるほどの大きさのネズミは不細工で、みるからにちゃちな作りだ。少し不安だが、試してみるぐらいはいいだろう。
棒を左手に持ち、右手でひもの先についたネズミを投げてみた。想像通り、猫は無反応。やっぱりこんなちゃちな作りのものじゃあ、いくらなんでもだまされたりするわけないか。ため息をつきながら、ひもを手繰り寄せた。ずるずる、ずるずる、床の上を引きずっていると、猫がハッと大きく息を飲む音が響いた。まるで、そのとき初めて気づいたように、猫は大きな目を見開いてネズミを見ている。
反応が遅い。遅すぎる。だが、悪くない。ぼくは、にんまりと笑った。こんな中途半端なつくりのネズミと本物の区別もつかないなんて、しょせんケダモノ。オツムが小さいだけあって、賢くないんだなと笑いがこみ上げてくる。
ぼくがヒモを何度か強く引いて、ネズミに弾みをつけると、猫は冷蔵庫から鈍い音をたてて飛び降りた。耳とヒゲをピンと立て、全身の神経をレーダーのようにして獲物に集中している。そして姿勢を低くすると、助走をつけるように何度も後ろ足で足踏みしてネズミに飛びついた。ぼくはさっとヒモを引く。目の前から一瞬にして獲物が消えてしまったことに腹を立てたのか、猫はワムワムとかムニュムニュと口のなかで文句をいうが、再び体勢を立て直して勢いよくネズミに飛びかかる。
「ほらほら、こっちだぞ~」
ひもをちょいと引いてから、ぼくはネズミを猫の顔の前にわざとぶら下げる。すると猫は前足を宙に大きく広げてつかみかかった。だが鋭い爪はむなしく空を切る。
もうヤツはネズミしか目に入らないらしい。じゃれるなんて生やさしいもんじゃない。狩りそのものだ。ヒゲをピンと張り、時々短い叫び声をあげながら、ネズミを捕まえようと必死になっている姿がおかしかった。猫は休むこともなく、二、三度、後ろ足でステップを踏むとネズミに襲い掛かる。猫に負けまいと、ぼくもヒモをひっぱり、あっちへこっちへと猫を翻弄する。まんまとキッチンから誘いだし、リビングまでおびき寄せた。だが、猫は興奮してそのことに全く気づいていない。
その頃には、ぼくの方がだんだん息が切れてきた。日ごろの運動不足のせいだ。そんなぼくの油断した一瞬をついて、猫はネズミを前足でキャッチすると、パクリと口にくわえて、もぐもぐと味わっている。
「だめ! これは食べられないんだ」
力づくで猫の口から、よだれまみれのネズミを取り上げた。意外にも猫は素直にネズミかを口から離すと、「もっかい投げて。こっちにネズミを投げて」といっているように上目遣いに見る。
「それ!」ネズミを猫から少し離れた場所に投げた。
今度はすばやくネズミに取りついた。猫はネズミをくわえたまま、床に背中をこすりつけて身体をくねらせている。
声をたてて笑ってから、ぼくははっとした。遊んでる場合じゃない。そもそもの目的は猫を捕まえることだ。ぼくはネズミのヒモを床に投げだすと、仰向けになって雑巾のように床に広がっている猫を捕まえた。無抵抗な猫を捕まえることは、ひどくたやすいことだった。「えっこらしょ」と口に出して、猫をかかえ、そのまま足早に玄関に向かった。片手で扉を開けると、冷たい風が吹き込んで、寒さに身がすくむ。猫は首だけをぐるりと曲げて、もの言いたげにぼくの顔をジロリと見た。この寒空の下に放り出すのは、ちょっとばかりかわいそうな気がする。だが、ここで負けちゃあだめだと自分に言い聞かせて、スニーカーをつっかけて外に出ると、玄関の門扉をあけた。
「まぁなんて、大きな猫ちゃん」
声の方を見ると、中年の女の人が目を丸くしてぼくらを見ている。名前は忘れちゃったけど、ピンク一色に身を包んだこのマダムは確かご近所さんだ。うちとは比べものにならないほど広い家に住んでいて、大きくておしゃべりなオウムと、人の言葉がわかるという犬、それから、すごく無口なダンナさんと暮らしているという噂だ。ぼくも何度かマダムが犬を散歩させているのを見かけたことがある。だが、話をするのは初めてだった。
マダムを初めて見かけたときは全身緑一色だった。ピーマンかハラペーニョの精がいるとしたら、きっとこんな姿だろうとぼくは確信した。夏の盛りに見かけたときは、全身真っ白で、ちょっとばかり老けた花嫁さんみたいだった。そして、今日は靴もスカートも上着も帽子も、全部が全部鮮やかなピンク。桃の精ってところだ。とにかく全身一色でコーディネートしないことには気がすまない人らしい。そのうえ今日はまた、桃色のミニ豚がお供している。トータルコーディネートはこれで完璧だ。
ミニ豚はひらひらした大きな耳と好奇心旺盛な黒い瞳で、マダムの足元からぼくの抱えている猫を見上げている。初めて見るミニに豚に、ぼくも猫も目が釘付けになった。
ミニ豚はとても行儀がよさそうで、性格もおっとりしているみたいだ。ぼくらを見上げる二つの瞳は、こちらに話しかけているようにも、微笑みかけているようにも見える。
マダムが猫をみて聞いた。「お顔もお目めもお腹もまん丸ね。お名前は?」
「え~っと、シマシマといいます」と、とっさに返していた。
「そうね、シッポもアンヨも背中もシマシマですものね。それにしてもなんて大きいのかしら?!」
「まだまだ大きくなる勢いです。そうなったら三味線にでもしようかと思います」
「またそんな冗談を……。でもほんと、大きい猫ちゃんよねぇ、プリちゃんもそう思わない?」マダムは助けを求めるように足元のミニ豚を抱き上げていった。
「はじめましてプリです。プリンセスのプリ、プリティのプリちゃんです。よろしくね」といって、二股に分かれた豚の前足を持って、猫に振ってみせる。
猫はギロリとミニ豚を睨んだが、すぐに横柄な態度で視線を外し、赤い舌でペロリと自分の鼻の頭をなめた。
「あらぁ……」マダムは猫の態度にがっかりしたようだ。でもすぐに笑顔になった。「猫ちゃんは、寒いからご機嫌が悪いのね。さあさあ、早くお家に入って温かくしてあげて」といってぼくを見る。
さすがに「これから、コイツを捨てに行くとこなんです」とはいえない。
“あら、どうしたの?” と、いいたそうに、ぼくを見つめるマダムとミニ豚の視線が痛い。ぼくはペコリと頭を下げ、くるりと背を向けて家に入った。もちろん、腕には猫を抱いたままだ。背中で玄関のドアがパタンと閉まると、腕のなかの猫がぼくの顔を不思議そうに見上げる。とっさのこととはいえ、ペラペラと口からでまかせに、シマシマなんて名前をマダムに言ってしまったことに激しい後悔を覚えた。いまさら捨てにいくわけにもいかない。腕のなかの猫が、さっきよりもぐっと重みを増した。
だるくなった腕から猫をおろすと、猫はシマ模様のシッポをピンと立てて、軽快な足取りでリビングへと駆けていった。
その後ろ姿を見ながら、いや、まだチャンスはあると思いなおす。もうしばらくしてから、再度トライしても遅くはないだろう。万が一、マダムにシマシマの様子をきかれたとしたら、少しだけさびしそうな顔をして、「実は外に出て行ったきり、帰ってこないんです。八方手を尽くして探したんですが、みつからなくて」といえばいいことだ。猫がいなくなる理由は腐るほどある。
「つかの間の安穏をむさぼるがいい! おまえがのうのうとしていられるのも、あと少しだ」
ソファで王様のようにふんぞり返る猫に、ぼくは呪いの言葉を吐いた。
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