シッソウカノジョ 第七話
犬を拾ったときは、ぼくももう少し大きくなっていた。
学校からの帰り道、草が伸び放題になった空き家の庭先で、その犬はおびえたようにふるえていた。茶色の毛は薄汚れて貧相で、キツネのようにも見えた。でもすごく人懐っこくて、ぼくが口笛を吹くと、すぐにシッポを振って近寄ってきた。利口そうにはみえなかったけれど、吠えたり噛みついたりもせず、撫でてやるとぼくの手を舐め、もっと撫でてほしそうに腹を見せて、右へ左へと振るシッポでぼくの足をたたいた。
いつからそこにいたのか、犬は首輪もなく、ずいぶん腹もへらしているようだった。ぼくが給食で食べ残した、固くてまずいパンをカバンから出して鼻面に差し出すと、犬はうまそうに食べた。子犬というには大きくなりすぎて、成犬というにはやせて小さかったけれど、「もっと、くれ」とぼくにエサをねだるしぐさや甘えたような鳴き声は、とてもかわいかった。迷わずぼくは、その犬を家に連れて帰った。
その夜、仕事から帰った父に床に頭をすりつけるようにして、食事や散歩といった世話はもちろん、宿題に加えて予習・復習、家のお手伝い、妹を絶対に泣かせないという条件をぼくが全て飲むという、信じられないほど不利な取り引きで、その犬を家で飼ってもらう約束をとりつけた。
それなのに、翌々日の日曜日の朝、どこでどう嗅ぎつけたのか、飼い主と名乗るおばさんが家にやってきた。犬を取り返しにきたのだ。
飼い主のおばさんがぼくの家の門を一歩入るやいなや、犬は喜びのあまり、ちぎれんばかりに尾をふり、おばさんがかけよるとその顔をべろべろなめまわして再会の喜びを全身で表していた。おばさんも涙を流して犬を抱きしめた。
ぼくは、おばさんと寄り添って歩く犬の後ろ姿をぼう然として見送った。犬は一度も振り返らなかった。
手に乗らないインコ、恩知らずの犬、そして、なにもいわずに家を出て行ってしまう彼女。ぼくの愛情はいつだって一方通行で、裏切られてばかりだ。言葉も気持ちも通じない相手にはこりごり。だから、一刻も早くこの猫も追い払ってしまいたかった。
猫はキッチンテーブルの下から、こちらの様子を用心深そうな視線でじっとにらんでいる。
「もう遊びは終わりだ。おまえも自分の家があるだろう。ご主人もきっと心配しているぞ。もしおまえが野良だとしても、縄張りってものがあるはずだ。何日も留守にしていたら、別の猫が我が物顔でのし歩くようになっちゃうぞ」
ぼくの話を聞いているのか、聞いていないのか、猫はちっとも出て行く気配をみせない。やっぱりだめだ。
言葉が通じない相手には、食べ物だ。何かないかと冷蔵庫をあける。驚いたことに、冷蔵庫のなかには、猫が食べられそうなものどころか、ヒトの食べるものもほとんど入っていなかった。あるのは、しなびたレタスとビンに少しだけ残ったピーナッツバターだけだ。
透子がいなくなってからというもの、ぼくは食べることに興味を失ってしまっていた。 しなびて緑から茶色に色を変えたレタスを取り出してゴミ箱に投げ込むと、ピーナッツバターのビンの向こうに縁が反り返ったハムを三枚みつけた。ちょっと乾燥していたが、腐っちゃいない。ほんの一瞬、猫なんかにやるのは惜しいような気もしたけれど仕方ない。ハムを一枚手に持って、テーブルの下の猫に声をかけた。
「こっちへおいで。ハムだぞ。おいしいぞ~」
そっぽを向いている猫の気をひこうとヒラヒラと振ってみたが、猫は全く感動のない、ガラス玉のような瞳でハムを見ているだけだ。
まさか、ハムを知らないわけじゃないだろうな?! ぼくは、手にしたハムをパクリと食べてみせた。
「おいしいぞ~」もぐもぐしていると、やっと食べ物だとわかったのか、猫は目をさらに見開き、耳をピンと立てた。
みせびらかすように二枚目のハムを猫の目の前にちらつかせ、ゆっくりと口に運ぶ。
猫はヒゲをレーダーのように立てて、空気のなかに食べ物のにおいを嗅ごうと、鼻をうごめかせた。悪くない反応だ。ぼくはテーブルの下に這いつくばって、うんと腕を伸ばして、なるべく猫の鼻面近くにハムを近づけた。猫は首を少しのばしたが、こちらに近寄ってこようとはしない。意外と用心深い。ハムを宙にひらひらして腕が疲れてきたぼくは、持つ手をかえて、さらに猫の鼻先ににじりよる。
「ほぉーら、こっちだ」
警戒しながらも、自分から鼻をちょっとだけ近づけてきて、クンクンとにおいを嗅いだ。
「いいにおいだろ? うまいんだぞ。これが最後の一枚だ。早く出てこないと、ぼくが食べちゃうぞ」
猫のなかで警戒心よりも食欲が少しだけ優勢になったのか、そろりそろりと近づいてくる。賢いといっても猫は猫。やっぱり食い意地には勝てないんだ。クククッと、ぼくは心の中で笑った。猫は思いっきり首を伸ばしてハムの匂いをかいでいる。ぼくはゆっくりと手を引っ込める。猫が一歩だけ近寄る。ぼくはまた、ほんの少しだけ手を引っ込める。猫はまた少しだけ近寄ってきて、ハムの味見をしようとテーブルの下から身体を半分ほどみせた。
いまだ! 猫の首根っこをひっつかもうと飛びかかった。ほんの一瞬だけ猫の方がすばやかった。ひらりと身をかわした猫を逃がしてなるものかと必死で手を伸ばす。その瞬間、闇のなかに火花が散ったかと思うと目の前が真っ暗になった。勢いあまって天板に顔をぶつけてしまった。鈍い痛みがして、目から涙があふれる。そして、生温かいものが鼻からぼとぼと流れて床に散った。
うずくまって痛みがおさまるのをただひたすら待った。視界の隅にとらえた猫は、テーブルに飛び乗ると、その太った身体に似合わない素早さで、さらに冷蔵庫の上へと飛び移っていった。
「くくくくっそー!」
なんとか身体を起こし、ぼくが冷蔵庫の上の猫を捕まえようと踏み出した瞬間、右足に鋭い痛みが走り、思わずギィャ~ッと獣じみた声が喉の奥から出た。
こわごわ右足をあげてみると、土踏まずのあたりにサックリとガラスの破片が突きたっていた。運悪くテーブルの上のグラスが落ちて、破片が床に散っていた。ドクドクと心臓の鼓動にあわせて痛みが広がる。痛みのあまり、めまいと寒気までしてきた。どうしてぼくは、たかだか猫一匹満足に追っ払うこともできないんだ。自分が世界で一番情けない人間になったような気がした。そのとき、鋭い視線を感じてふと見上げると、暗い光をたたえた目で猫がこっちを見下ろしていた。自分より下等な生き物を見るときの目つきだ。
「そんなふうにぼくを見るな!」
ぼくは手の中のハムを力いっぱい握りしめた。
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