野球ロボットが見たいか
野球は頭のスポーツ
野村克也氏は生前、こう言って憚らなかった。
実際、これは野球というスポーツの真理をついた言葉であると思う。
しかし、現在「野球は頭のスポーツ」の「頭」は誰の「頭」を指すのだろうか。
先日、久しぶりのメディア登場を果たしたイチロー氏が、このようなコメントを残した。
「最近、高校野球を見るんです。野球をやっているんですよ。普段、メジャーリーグをよく見る。メジャーリーグはいま、コンテストをやっているんですよ。どこまで飛ばすか。野球とは言えない。どうやって点を取るか。そういうふうにはとても見えない。高校野球には、それが詰まっている。面白い。頭を使います。ファンは野球を見たがっている。コンテストを見たいわけじゃない。そういう意味で、高校野球はめちゃくちゃ面白いです。プロに入る前段階の選手の野球にすごく興味がある」
この発言。今回重要なのは、イチロー氏がMLBの現状を憂いるような発言をしている箇所である。
ちなみに、イチロー氏がMLBの現状を憂いたのは今回が初めてではない。2019年に行われた引退会見でも同じような意見を述べている。こちらは今回の主題に関してさらに詳しい。
以下が該当部分の全文である。
2001年にアメリカに来てから2019年現在の野球は、まったく違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような。選手も現場にいる人たちもみんな感じていることだと思うんですけど、これがどう変化していくか。次の5年、10年、しばらくはこの流れは止まらないと思いますけど。
本来は野球というのは……、ダメだな、これを言うと問題になりそうだな(会場笑)。うーん。(野球は)頭使わないとできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているというのがどうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから、その野球が現状そうなってきているということに危機感を持っている人っていうのがけっこういると思うんですよね。
だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしいなと思います。アメリカのこの流れは止まらないので。せめて日本の野球は決して変わってはいけないこと、大切にしなければいけないことを大切にしてほしいなと思います
2019年東京ドームでのMLB開幕戦の最中に流れたイチロー引退の報。その後行われた引退会見は、まさに「イチロー節」のオンパレードで、私も楽しく会見を見守っていたのだが、上記の発言を聞いた際、ハッとさせられるものがあった。
それは、いちファンとして近年のMLBに対して、いや、野球そのものに対して抱いでいた感覚を見事に言語化してもらった感覚であった。
冒頭に戻る。
野球は頭のスポーツ
この言葉はたとえ野村氏が亡くなろうと、時代が変わろうとも、真理であり続けると思う。
しかし残念ながら誰の「頭」を指すのかは変わりつつあるように思う。「頭」は選手のものではなくなってきている気がするのだ。
その実態とはなんなのか、野球が変わってしまうことは喜ばしいことなのだろうか。今回はこちらのテーマについて考えていきたい。
そもそも「選手が考える野球」とは何なのだろうか。
「野球脳」というフレーズを耳にした方は多いだろう。
「野球脳に長けた選手」「野球をよく知っている選手」などと呼称される選手はどういった特徴があるだろうか。
打者のファウルを見て守備位置を変える野手、配球を組み立てるバッテリー。
投手の攻め方から次にくる球を予測する打者、投手のクセや配球から盗塁を狙うランナー。
野球にはプレー中に「頭を使う要素」がたくさんある。優れた洞察力と瞬時の判断力。自らの経験やデータをもとに作り上げた「野球脳」を活かして相手と読み合い、ばかし合いを行う野球こそ「選手が考える野球」だと私は思う。
ホームランや豪速球など、華やかなプレーも素晴らしいが、野球にはそれ以外にもこのような楽しみ方が「あった」。
こうした野球の要素は、もはや邪魔なもの、非効率なものとなろうとしている。MLBは、細かいプレーを極めるよりも、より合理的な野球を見つけてしまったのである。
野球は今、MLB発信で大きく変わろうとしている。それは、イチロー氏の言葉を拝借するなら野球の「コンテスト化」。私個人の見解を述べるのなら、野球の「科学化」「ロボット化」である。
究極の野球論
ホームランさえ打てれば、他のどの方法よりも簡単に点が入る。逆に、バットにボールが当たらなければ何も起こらない。
野球は今、この究極を目指すスポーツになろうとしつつある。そんなことを100%可能にするなんてロボットでもなければ不可能なのに。しかも、究極が完成した時「バットにボールが当たらない」のだからゲームは破綻するのに。
この時、必要とされるのは選手の「野球脳」ではなく「科学」であり「選手が考える野球」は幻のものとなりつつある。
なぜこんなことが起こってしまったのだろうか。
原因① 「守備シフト」
MLBにおいて、2010年ごろを境に、データに基づく守備シフトが全盛を迎えた。各打者の打球方向を徹底的に分析し、あぶり出された守備シフトは、野球の原風景からすると奇妙に映るものであった。
皆さんもMLB中継や世界大会で、本来ショートの守備位置と思われる場所にサードがいたり、ひどい時では1・2塁間にサードが配置されるような守備シフトを目撃したことがあるかもしれない。思えば、これらの極端な守備シフト導入は、視覚的に従来の野球観を破壊しただけでなく、その中身まで変えてしまう原因となった。
守備シフト導入で、打者はヒット性の当たりをことごとくアウトにされるようになった。特に悲惨だったのは、打球方向に偏りのある選手、足の遅い選手であった。
極端な守備シフトがとりやすく、本来抜けていた打球が捕球される。しかも足が遅いので内野安打が望めない。
守備シフトは、打者の打率を大きく悪化させた。私の印象では、マーク・テシェイラ、アルバート・プホルスといった選手は、守備シフト全盛を迎えた2010年ごろを境に、それまでより打率を5分は下げた。(もちろん本人の衰えなど、その他の要素もあるだろうが。)
ここで打者が生き残る道が2つ見えてくる。
1つは足を速くすること。打球方向が分かっていても、ゴロであれば1塁への送球が伴う。外野に近いような位置でゴロを捕球出来たとしても、1塁に間に合わなければ意味がない。また、バントヒットが成功する確率も上がっているため、足の速さを高めることはひとつ有用な対策であった。
もう1つはホームランである。「フェンスを超えてしまえばシフトなんて関係ない」理由はこれに尽きる。他に何もなくて逆に申し訳ない。
選ばれたのは後者であった。なぜか。足を速くすることは非効率であったからである。ホームランはそれだけで1点が入る。しかし、内野安打は所詮1塁打。MLBにおいて守備シフトを打破する方法、それはホームランになった。
原因② フライボール革命
守備シフトを打破するため、選手にはホームランが求められるようになった。そしてこの時、ホームラン増加に貢献したのはデータに基づくある理論であった。
「フライボール革命」という言葉を耳にしたことのある方は多いのではないだろうか。データから最も安打になりやすい打球速度・打球角度が算出され、打者は「理想の打球」を再現するためのスイングが求められるようになった。
打球に関する数値を算出する専門の機器、スタッドキャストが導入された2015年以降、MLBではフライボール革命が全盛を迎え、ホームランの数が激増した。
この頃渡米した田中将大は「メジャーでは困ったら原点(アウトローのストレート)は通用しない。」と語っていたが、全ての選手が理想の打球速度・打球角度を求めてアッパースイングで強振するようになった結果、当たればホームラン、極端に言えばこのような状況になった。
守備シフトはまだベンチ主導の戦術的な要素が強かったが、この段階でデータに基づく科学的理論は、選手個人の技術にまで介入するものとなった。
MLBの新たなトレンドとなった「フライボール革命」。その打開策はこれまたシンプルであった。
シャア大佐は言った。「当たらなければどうということはない!」
原因③ ピッチトンネル
野球中継を見ていて「なんでこんなワンバウンドの球を振ってしまうのか」と腹を立てたことがあると思う。
それはストレートだと思ってスイングしたボールが変化したからである。打者がスイングするか否か判断するタイミングまでストレートの軌道だった球が、判断するタイミングの限界を超えてから変化しているのである。打者は見逃すこともできなければ、バットにボールを当てることすらできない。
ピッチトンネルとはストレート軌道の球を、打者のスイング判断の限界(チェックゾーンと呼ばれる)を超えてから変化させる技術のことである。(と理解している。この分野に関しては毛嫌いしていることもあって明るくない。詳しく知りたい方はお股ニキ氏を頼ろう。)
しかも複数球種を同じような球速・軌道に近づける作業が行われている。150キロを超える7色の変化球が途中まで全て同じ軌道で、打者のチェックゾーンを超えてから曲がる。皆さんにはバットにボールを当てる自信があるだろうか。
従来、カーブなど曲がりの大きい変化球は投げ出しからストレートとは異なる軌道を描く上に球速もストレートより明らかに遅く、打者としては「ヤマを張る」という行為が行いやすい変化球であった。
逆にカットボールのようなストレート軌道に近い変化球は、球速はストレート並みの速さを維持できるものの、変化量が少なく、打者の手元で詰まらせる球、という意味合いが強かった。
しかし、野球は、バットにボールを当てられるだけでもホームランの危険性がある競技に変わってしまった。
こうした中で求められたのは、わかっていてもバットに当たらない球であった。
ストレートと異なる軌道を描いては、その球を待たれる可能性がある。ストレートに近い軌道でも曲がりが小さければバットに当たる可能性がある。
ストレートに近い軌道・球速で大きな変化をする球。「フライボール革命」打破のため、必要とされたのは、そんな「究極の変化球」であった。
「究極の変化球」を完成させたのは、またしてもデータに基づく科学的理論であった。ポイントとなったのは回転数や回転軸。これらのデータを算出し、ストレートに近い軌道かつ打者の手元で曲がる技術が求められるようになった。
ピッチトンネル普及以降、投手の奪三振は激増した。リーグタイトルを獲得する選手の奪三振数は300を超えることもしばしばとなった。(2019年のアメリカンリーグ奪三振王ゲリット・コールは212回で326の三振を奪っている。奪三振率13.82は歴代最高を記録した。)
こうして今日のMLBは異常な光景を迎えることになった。奇妙な守備位置とホームランしか狙わない打者。バットに当たらない球を投じる投手。ホームランか三振か、淡白な打撃と単調な配球、たまに当たってもよくわからないところにいる野手が捕球する。点が入るのはホームラン。打った球は投手の投げ損ないである。走塁技術はほとんど日の目を浴びなくなったし、打球が飛ぶところに先回りしているのだから、守備範囲の広さも最重要事項ではなくなった。フィジカルと再現性がモノを言う世界。あれ?日本人入る余地ある?
この世界観の中で「野球脳」は邪魔で非効率な存在となる。
仁志敏久という選手がいた。野球センス抜群で「なんでそこにいるの」という守備シフトでファンを沸かせた名選手である。データ少々、あとは自分の感覚。彼の抜群の野球センスは時としてデータにない守備位置でチームを救った。現在。こんな選手は必要ない。統計学的に見たらお前のせいでヒットが増えてる、なんて言われたらどうだろう。仁志の守備に酔いしれたファンたちは何と言い返すだろうか。
バッテリーの配球。「バットに当たらない球」を手に入れた投手にもはや配球など存在するのだろうか。必要なのは「バットに当たらない球」を投げる再現性。「インコースでファウルを打たせて、低めの変化球でゴロを打たせる…」バットに当たるぞ、危ない危ない。むしろど真ん中の直球が7色に変化する方が打ちにくそうだ。
打者の待ち方。もはや配球を読む必要があるのだろうか。わかっていても当たらないのだから。スイングの考え方。何が何でも当てる必要があるのだろうか。転がせば何か起こる。起こっても1塁打だろ?1試合で1人の打者に投じられる20球のうち1球はくるであろう失投を待ってホームランした方が確率がいい。だからホームランを狙えるスイングを常にする。当たらなくて元々。三振なんて仕方ない。
野球は頭のスポーツ
見方を変えれば、その側面はかなり高度化していると言える。なにせ野球の技術の世界にまで統計学をはじめとした科学的理論が導入されているのだから。
MLB各球団はデータアナリストを雇うようになった。彼らがPC相手に実践している野球はさぞ「頭のスポーツ」であろう。
しかし選手はどうか。上がってきたデータを再現することが求められ、むしろ個々の選手が持つ「野球脳」は非効率なものとして排除の対象に。
選手の頭から「野球脳」は抜き取られ、代わりに埋め込まれるのはアナリストたちが作ったデータを再現する「野球ロボット養成プログラム」。
100%の再現性を持つロボットが野球をすればおそらく投手が27の三振を奪って勝つだろう。しかし、人間は再現性を100%にはできない。失投・投げ損ないが存在し、100パーセントの投球は叶わない。打者には失投を確実にホームランにする再現性が求められるが、こちらも100%には届かない。打ち損じや空振りが存在する。
再現性を突き詰めることが野球となり、本来ロボットに求めるようなレベルが野球選手に求められれようになれば、人間の行う野球は、所詮劣化ロボット野球としか言えないものになる。
私たちはホームランの視覚的な華やかさに騙されているが、現状のMLBにおける野球は、人間がロボットにはなれない産物(再現エラー)としてホームランが生まれているに過ぎない。ホームランは昔から基本的に失投から生まれるものだが、ロボット野球を突き詰める限り、失投をホームランにできたことは相手ロボットのバグにしか思えなくて悲しくなる。
ロボット野球を目指すことが正解なのかもしれないし。しかし、データは活用しつつも、自らの感性をフルに働かせて野球をプレイしたとき、人間が野球をプレイしている意味がある気がする。再現性は落ちるかもしれない。しかし、機械化されたプレーにはない奥深さや予測不能な展開がそこには待っている気がする。
私はバントは嫌いだし盗塁もあまり好きではない。統計学的に効率的であるとされた理論はむしろ好きで、MLB流の戦術「2番強打者論」などは早期から好意的に捉えていた方である。
しかし、技術のレベルまでデータに毒されるようになった現状には激しい抵抗感を覚えている。
戦術が科学されることに抵抗を覚えなかったのは、あくまでプレーするのは選手だから。データを活用しつつも、実際のプレーには選手の「野球脳」も多分に反映され、十人十色のプレーが広がると思っていたからである。
しかし、選手の技術までデータによって科学されてしまっては、選手は自由を失う。再現性を追う野球は十人一色。しかも、究極の形態が叶ったとて、その時打者はなすすべなく、投手はゲームを破綻させる。悲しすぎはしないだろうか。
野球の中でも、技術の世界はブラックボックスであって欲しかった。
「当たらなければどうということはない!」究極論を体現する技術なんて簡単に現れるなよ、、
科学の凄さなのかもしれないが、科学発信で究極論を体現する技術が生まれたことが悲しいし、野球を単純化しすぎた罪は重い、と私は思う。
乱文長文となってしまったが、今回言いたかったことはこれなのかなと思う。私如きでは打開策など到底思いつかないし、現状を憂うだけの文章になってしまったのはここまで読んでいただいた読者諸氏に申し訳ない思いが募るばかりである。
日本野球はMLBの二番煎じと言われる。今回はどうだろうか。そういえばソフトバンクの投手陣は巨人打線の打球を前に飛ばさなかったっけ。シリーズ面白くなかったなあ。
まずいまずい。なにが正解なのかはわからないが、私は今のMLBは好きではない。
日本野球のあるべき姿ってなんなのだろう。
教えて、イチロー先生。
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