三浦梅園とわたし④
1985年、大学院の修士課程を修了した私は、私立の高校の国語科教員になりました。
そして、1987年の春休み、お見合いを経て、夫と結婚しました。
結婚式の披露宴には、第一外科からは、医局長だったA先生、仲良しの秘書仲間のFさんとSさんが出席してくれました。
M教授は残念ながら、主宰の学会がおありだそうで、欠席でした。
母校の女子大からは、部活動の顧問で、医局長秘書のアルバイトを紹介して下さったY先生、東京大学の教養学部に移ったO先生が出席して下さいました。
今、披露宴の席順表を見ると、丸テーブルの主賓の位置に、大学院の指導教官だった、今は亡き秋山虔先生、お隣に、私の当時の勤務先だった私立高校のB校長先生のお名前が見えます。
秋山先生の反対側の隣にはO先生、そのお隣に医局長のA先生、そのお隣に、A先生の奥様の親友でもあるY先生の順です。
実は、偶然のことながら、A先生も愛知県の出身でした。
もちろんドラゴンズ仲間です。
そんなこともあって、O先生とA先生をお隣同士の席にしたのですが、さらに偶然が重なり、A先生の奥様は、当時東京大学の助教授、同じ東大助教授だったO先生とは会議などで面識があったらしく、後でA先生から、『O先生は僕の家内のことを知っていましたよ』と伺いました。
披露宴での丸テーブルの席順は、特に気を使うものだけに、どうやら成功だったらしいとほっとしたのを覚えています。
さて、三浦梅園と私との関係ですが、結婚して子どもが生まれてしまうと、子どもの世話にかかりきりになるため、梅園との仲は段々と薄れて行きました。
教員の仕事も辞め、梅園学会からも足が遠退きました。
学会事務局から不定期に送られてくる、「学会ニュース」と、年に一度発行される学会誌「梅園学会報」を読むことだけが、三浦梅園と私との仲をかろうじて繋いでくれていたのです。
このように、私が子育てにかまけている間に、O先生と、医局のM教授の身の上には、当時大きな変化が起こっていました。
以前にも書きましたが、1989年から、O先生は、梅園学会の代表委員となりました。
事実上の主宰者です。
その前年には、大学でも助教授から教授になっていたので、ますます多忙になっていらしたものと思われます。
一方、第一外科のM教授は、私が結婚した年、1987年の9月22日、歴史的な手術の執刀医となりました。
昭和天皇の開腹手術を手掛けたのです。
それまで、歴代天皇の玉体にメスを入れた医師はいませんでした。
飄々としたM教授でしたが、どんなにプレッシャーを感じただろうと思うと、想像しただけで気が遠くなりそうでした。
幸い手術は成功しましたが、約1年と4ヶ月後の1989年1月7日に、昭和天皇は87歳で崩御されました。
昭和64年は、平成元年ということになったのでした。
平成3年には、二人目の子どもである息子が生まれました。
育児中心の日々の中でも、年賀状のやり取りを通して、先生たちとの縁は続きました。