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なぜ「となりのトトロ」には退屈な部分がないのか?

私にとって、映画とは、「となりのトトロ」をもって、それ以前、それ以後とに別れる。

と、書き出してみた、ぱんだごろごろです、こんにちは。
何を言いたいかというと、それまでの私にとって、映画とは、必ずどこかに退屈なところ、つまらないところが含まれているものだったのに、驚くべき事に、宮崎駿監督の「となりのトトロ」には、その退屈なところがなかった、ということです。

これは衝撃的な出来事でした。
映画と言えば、我慢して見るもの――漠然とそう思って生きてきた私に、「となりのトトロ」は革命を起こしたのでした。
約一時間半の間、ずっと楽しんで見ていられる映画が、この世に存在する、と。

それからは、積極的に、スタジオジブリ映画を見続けて来ました(「猫の恩返し」まで。「ハウルの動く城」からは、家族揃って行くことが難しくなったため、映画館では見ていません)が、いずれも期待を裏切らない作品群だったように思います。

もちろん、ここまで私が述べてきたことは、私にとってのみ起こった現象だったのかもしれませんが、少なくとも、当時の宮崎駿監督作品(スタジオジブリ作品)が圧倒的な高評価を得ていたのは事実です。
つまり、世間一般の人々のうち、何人かは、私と同じように、「退屈なところのない映画」として、ジブリ映画を評価したのではないでしょうか。

それにしても、なぜ、そういう現象が起こったのでしょう。
別の言い方をすれば、私は、それまで見てきた映画の中のどういう場面を、退屈だと感じて切り捨てて来たのか。

普通に考えれば、退屈するのは、自分が興味の持てない場面、ということでしょうから、
①メインのプロットとは関係のないエピソード
②共感できない登場人物に関する描写部分
③長すぎる背景の説明

④監督や脚本家の難しすぎる思想の主張部分
というところでしょうか。

「となりのトトロ」は、1988年公開の映画です。
それ以前に私が見てきた映画とは、どんなものだったのか、というと、友達に誘われて行ったものや、チケットをもらったから行ったもの、学校から集団で鑑賞にいったものなど、そもそも自分の意思で見に行ったものは数えるほどしかない、ということに気付きました。

それに加えて、小説を映画化したものだった場合、その原作に思い入れがあればある程、映画化作品に対する点数が辛くなるのは、当然の成り行きです。
しかも、思い入れのある小説が映画化されたから、見に行こう、となる訳ですから、ある種の悪循環である、とも言えます。

今なら、細部まで忠実に映画化することなど無理だし、予算にも限りがあるのだから、と余裕を持った考え方ができますが、若い頃は、原作からはずれた描き方をされると、それだけで、評価できなくなっていたのでしょう。

「となりのトトロ」は、アニメーション映画であったことも幸いしたと思います。
映画の中の自然は、空も森も木も、本物そっくりで、しかも本物以上に美しいのでした。
昔の日本にはあったが、今の日本にはないもの。
映画の中には、人々の郷愁を呼び覚ますものが詰まっていました。

しかも、ストーリーが単純で、明快でした。
人生について思い悩むといった、つまらない枝葉や、脱線などはなく、二人の姉妹は明るくまっすぐで、父思い、母思い、周囲の人々は、引っ越してきた一家をのけ者にしたり、意地悪をしたりは一切なく、学校の教師や子ども達は姉妹に好意的で親切です。
まさしく、安心して見ていられる映画でした。

大人は子ども時代を思い起こし、子どもはトトロや猫バスに夢中になれるファンタジー映画。
単純なストーリーで、ここまで完成されたものを作れるのだ、という制作者の意気込みを感じました

善意なだけで、何が悪い。

母の病気は癒え、退院できる日もそう遠くはないでしょう。

「となりのトトロ」以後、ジブリ作品に加えて、「平成ガメラシリーズ」三部作、ディズニーの「シンデレラ」など、楽しめる作品が増えました。

ずっと抱いている願望を言えば、ジブリで、フィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を映画化して欲しい、時の流れをアニメーションでどう表現するか、それを見たい、と思っています。

まとめます。
「となりのトトロ」により、私の映画観は変わりました。
なぜなのか、自分なりに考えて、書いてみました。
まったく退屈するところのない映画、「となりのトトロ」をご覧になったことがありますか?  一度は見る価値のある映画として、お薦めします。

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