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老婦人と会うための旅~奈良へ行く

こんにちは、ぱんだごろごろです。
先日、無事に奈良まで行き、ずっとお会いしたかったご婦人と会うことができました。

この方については、今までに何度も書いているので、記憶に残っている方もいらっしゃるかもしれません(▼最後に過去記事をまとめておきました)。

彼女は、江戸時代中期の哲学者、三浦梅園(1723~1789)の末裔です。


主著は『玄語』、メインメッセージは「反観合一」、多くの塾生たちを育て、「豊後聖人」と呼ばれた。本業は医師。豊後国杵築藩(大分県国東市)出身。


私は、学生時代に恩師のすすめで梅園学会に入会し、以来三浦梅園とは、40年以上の付き合いです。

その恩師の紹介により、一昨年、このご婦人と知り合いました。

当時90歳だった彼女は、視力の低下のため、メールやラインは使えないとのことで、当初から、もっぱら文通によってのどかに親睦を深めてきました。

それが、今年に入って、胆のう炎による入退院を繰り返していたことが発覚。
それ以外にも、家の中で転んだり、お腹を壊して転地療養していたこともわかりました。

これらの事実が、私に突き付けたのは、ご婦人が紛れもなく老齢であると云う現実でした。
今、会いに行かないと、もしかしたら間に合わないかもしれない。

ご婦人は、お母様が梅園の子孫であると同時に、お父様が三浦梅園の高名な研究者であるという、梅園とはかかわりの深いお立場でした。

手紙のやり取りを続けるうちに、梅園哲学をかじった者として、興味の尽きない様々な事実を知ることになりました。

文章からにじみ出る、ご婦人の人柄にも魅かれて行きました。
むしろそちらの方が強かったかもしれません。

何としてでも、今、まだ残された時間のあるうちに直接お会いしたい。
会って、言葉を交わしてみたい。

そう決意した私は、老婦人に7月の都合を尋ね、職場に有給休暇を申請し、旅行会社を通して、新幹線とJR奈良線の切符並びにホテルの手配をしたのでした。

新横浜駅でのぞみに乗り込む時には、ワクワクしました。
コロナ禍のせいで、ここ数年新幹線に乗っていなかったのです(そのくせ、飛行機には乗っていました)。

出かける時に、夫に、『新幹線に乗れる、嬉しい~』と言ったら、『小学生か』と言われました。


鞄の中には、それまでに老婦人からもらったすべての手紙と葉書、写真類に加えて、三浦梅園と賀来飛霞(ご婦人の亡くなったご夫君の先祖)のそれぞれの家系図をまとめたファイルを入れました。

新幹線の中で、それらをひもときながら、『失礼のないように、お行儀良くしなくては』と、それこそ小学生のようなことを考える私でした。


京都で新幹線を降り、JR奈良線の「みやこ路快速」に乗り換えて、奈良駅に降り立った私を出迎えてくれたのは、「せんとくん」でした。

JR奈良駅のせんとくん。どこを見ているのか、夢みるまなざし。


老婦人のご自宅は、JR奈良駅から10分とかからない、閑静な住宅街にありました。
あらかじめグーグルマップで調べておいたので、問題なく約束の時間に到着しました。

私を出迎えてくださったのは、ご婦人と、近くに住むという次女の方。
この日のために、わざわざ来てくださったのだとか。

暑い日だったので、お話の途中で、彼女は何度もお茶を入れ替えてくれました。
葛餅、桃、きんつばと、冷たいお茶、熱いお茶と共に出されたお菓子を、私はその都度ぺろりと平らげました。

ご婦人の亡き夫は、幕末三大本草学者の一人、賀来飛霞かくひかの曾孫に当たります。


賀来飛霞(1816~1894):本草学者であると共に、医師であり、すぐれた画家でもあった。
東京大学の小石川植物園を支えた一人。


ご婦人の家の床の間には、賀来飛霞の描いた植物図の掛軸が掛けられており、その前で、私とご婦人とは、並んで記念写真を撮りました。

私は今年の3月に膝の骨を骨折したため、まだ正座がきちんとできなくて、傾いてしまうのですが、何度も次女の方が撮り直してくださいました。




三浦梅園旧宅(大分県国東市安岐町)

ご婦人の父上が、当時、三浦梅園の実家の蔵に収蔵されていた梅園直筆の資料を、どんな風に運び出しては研究していたのか、

父上が亡くなったあと、私の恩師を含む梅園学会の学者たちが、どんな風に父上の遺された研究資料類を整理したのか、

ご婦人から伺う話に、時間を忘れて聴き入りました。

また、当時は満州国に住んでいて、戦後の引き揚げで苦労された方も多かったとか。
ご縁者の波乱万丈の人生を、驚くべき記憶力で淀みなく語る老婦人に、ただもう圧倒されるばかりでした。

気が付いた時には、訪問してから3時間が経っており、貴重な時間を取っていただいたことに心から御礼を述べました。

暑い日だというのに、玄関先から去ろうとする私に、老婦人は付いて来ようとします。
慌ててお見送りを辞退しようとしましたが、老婦人は静かに話しながら、歩みを止めません。

結局、大通りに出るまで、老婦人は付いて来て、私を見送ってくれました。

年齢から言えば、昭和7年生まれのご婦人は、昭和10年生まれの私の母に近いのですが、その時の私は、子供時代に戻って、祖母に見送られているような甘やかな気分を味わっていました。

一度だけ振り向いて頭を下げ、二度目に振り返った時には、道に人影はありませんでした。
私はその日泊まることになっていた、奈良駅前のホテルに向かって、歩き出しました。



翌日は、さらに暑い日でした。
ホテルのビュッフェ式朝食〈奈良の朝ごはん〉で元気をつけ、フロントに置いてあった地図でバスルートを確認しました。


和食メニューは一通り食べました。豆乳鍋が美味しかった。

●和食メニュー
三輪素麺/柿の葉寿司/興福寺の粕汁/興福寺の精進汁/豆乳鍋/竜田揚げ 奈良漬入りタルタルソース/温玉/豆腐/和惣菜5種/茶粥/玄米ごはん/御飯/焼き魚/奈良漬/南高梅/黒豆納豆/味付け海苔/漬物など


ホテルをチェックアウトしたあとは、シンプルに奈良の大仏様だけを見に行って、駅前のスターバックスで昼ごはんを食べたあとは、お土産を買って、再び奈良線の「みやこ路快速」で京都に戻ろう。

そう決めた私は、さっそくバスで東大寺へ。

東大寺金堂(大仏殿)

海外からの旅行客が多い。
これが奈良の第一印象でした。
それも、近くの中国・韓国からの旅行者よりも、欧米人の旅行客が多いのです。


大きい!(14.98m)

鎌倉へ帰ったら、鎌倉の大仏さんと大きさを比べようと思って、奈良の大仏さんをじっくり観察しました。
しかし、そうするまでもなく、奈良の大仏さんの方が、圧倒的に大きく感じました。


奈良の盧舎那仏(大仏)、左側にいるのは、虚空蔵菩薩。

迫力満点です。

東大寺に向かう道すがら、どこへ行っても鹿に会う。さすが奈良。

バスの中からも鹿が見え、バスを降りてからも鹿がいる。
奈良のまちは、鹿だらけでした。


正倉院。現在は建物のみで、宝物は別の建物に収蔵されているそうです。

外側だけでもいいから見ようと思って、正倉院まで歩いて行きました。
皇宮警察の警察官の方が、暑い中、敷地内を行き来していました。
ここにあるのは、日本の宝なのだと、実感しました。



おまけ

海外のホテルに泊まると、ベッドのサイドテーブルや引き出しに、聖書が置かれていることがありますよね。

奈良のホテルには、「聖書」ではなく「古事記」が置かれていると、どこかで読んだことがあって(さすが奈良!と感心しました)、今回確かめてみようと張り切っていました。

結果:以下の写真の通りです。

右から、「仏教聖典」、「古事記」、「聖書」です。

噂どおり、「古事記」が置いてありました!

ただ、それだけでなく、仏教、キリスト教と、一通り教典が揃っていました。
薄い冊子は、英語で書かれた仏教入門書です。


神々と鹿と、老婦人の住む、奈良のまちでした。

#忘れられない旅
#わたしの旅行記


今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
有意義かつ楽しい旅でした。

▼老婦人について過去に書いた記事です


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ぱんだごろごろ
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