三浦梅園とわたし②
医局の受付にいたのは、ひとの良さそうな中年の女性でした。
「あなたが大熊猫子さんね」
彼女はにっこりしながら言いました。
「はっ、はい、大熊ですっ、よろしくお願いします」
「この奥が医局長室よ。医局長のA先生と、今まで秘書をやってくれていたTさんがいるわよ。引き継ぎしてもらってね」
「あ、ありがとうございます!」
こうして、私は、大学院在学中、医局長秘書のアルバイトをすることになったのでした。
今でも覚えているのは、医局では、何か行事が終わると、打ち上げにお寿司か鰻重が振る舞われたこと。
決まって、この二つのうちのどちらかでしたが、どちらも飛び切り美味しくて、それまで何度となく食べてきたお寿司と鰻ではありましたが、和食で一番のご馳走は、この二つではないかと見直したほどです。
当時、その医局は、第一外科と呼ばれていました。
略して、一外。
医局長秘書としての仕事の一つに、電話の応対があったのですが、ある日、私は、掛かってきた電話の、相手の言う言葉が聞き取れずに、困り切ってしまいました。
『サンナイですけど』
『? あ、あの、もう一度お願いします』
『サンナイ、サンナイです!』
???
――受付の方に聞いてわかりました。
サンナイとは、第三内科のことだったのです。
そんな笑い話のようなこともありましたが、医局での仕事は楽しいものでした。
医局を構成していたのは、教授、助教授、講師、医局長、医局員の先生方でしたが、教授と助教授、講師(講師室に一人)には、それぞれ秘書が付いていました。
みんな同じ年頃の女の子たちで、一緒にお昼を食べたり、休み時間にはおしゃべりしたり。
そのうちのお二人とは、特に仲良くなって、休みの日に一緒に遊びに出掛けたりもしました。
彼女たちは、お父様がそこの医局出身の、お医者さんのお嬢さんたちでした。
二人のうち、お一人は私と同い年で、もう一人の方は、少し年上でした。
彼女は、教授の秘書でしたので、彼女と仲良くしているうちに、教授ともよく顔を合わせるようになり、しぜんにM教授ともよくおしゃべりするようになりました。
なぜ、M教授と仲良くなったのか、これは多分、フランス文学が取り持つ縁だったのではないかと思います。
私の専門は、平安時代中期の古典文学で、卒業論文では清少納言の「枕草子」を、修士論文では藤原道綱母の「蜻蛉日記」をテーマにしたのですが、専門外では、ずっとフランス文学が好きでした。
ある日、ガルガンチュアとパンタグリュエルの話になって、そこで、M教授がフランス文学に詳しいことを知りました。
その上、さらに話していくうちに、私が学部時代に、フランス語を教わっていたN先生を、教授が知っているということがわかったのです。
教授はフランスに留学したことがあり、行く前に、N先生に、フランス語の家庭教師をしてもらっていたのだとか。
そんなことがわかって、私はより一層、M教授に親しみを感じるようになりました。
「医局長のA先生も言っていたけど、大熊さんは背が高いから、医局の先生たちなんて、むさ苦しいチビの集団に見えるんじゃない」
「いえ、とんでもないです。先生方には、いつもお世話になっていますっ。私が大き過ぎるんです。なるべく先生方の近くには寄らないようにしますから」
M教授はよく冗談を言う人でもありました。
その日、M教授と、仲良しの教授秘書のFさんと別れ、教授室を出た私は、医局長室に入る手前で、二人の医局員の先生方とすれ違いました。
会釈した相手のうちのお一人は、よく知っているN先生でした。
N先生は、若手の医局員で、人当たりの良い、気さくなお人柄、私たち秘書にもよく声をかけてくれる方でした。
「A先生、こちらです」
医局長室に入ると、私は、A先生がデスクにいらっしゃるのを確認して、M教授から預かってきた書類を差し出しました。
「ああ、ご苦労様、ありがとう」
A先生は書類を受け取ると、顔を上げました。
「大熊さん、今部屋から出て行った先生たちのこと、知ってる?」
「はい、お一人は、N先生ですよね。この間、手相を見て頂きました」
「え、手相? あいつ、そんな特技があったのか」
「はい、もう一人の方は、今までお会いしたことがないと思います」
「ああ、彼はS先生と言って、N先生とは同学年ですよ。大分県の出身でね、実家も、地元では有名な医院だそうで」
「先生、お詳しいんですね」
「まあ、若い彼らの身の振り方を考えるのも、医局長の仕事ですからね」
「本当に、医局長のお仕事って大変なんですね」
「ここだけの話、お見合いの世話まで頼まれるからね~」
「先生、元気出してください!」
(きっと、机の引き出しの中に、先輩のお医者さんたちから頼まれた、娘さんのお見合い写真が、たくさん入っているんだろうな)
私は、こっそりそんなことを思ったのでした。