【き・ごと・はな・ごと(第12回)】うらうらと、桃の花
3月3日は桃の節供である。
この日、和歌山県加太の淡島神社で行われる雛流しはつとに有名である。今年、全国から寄せられた雛人形の数は約4万体、神事を見ようと集まった人出は2万だそうだ。おすべらかしに十二単、つんと澄ました表情の人形たちが、鮨積め満員御礼状態で船に積み上げられ、ゆらゆらと海上に流されていくさまは、微笑ましくもあり妙に儚げでもある。
お雛さまたちが分乗する貴船には、桃の花が添えられる。雛飾りだから桃の花は当たり前だ。にしても考えてみれば何故この時期に桃なのだろうか・・・。
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うらうらとのどかに照りたる・・・と清少納言が枕草子で詠ったような今年の雛の日、春の陽気に誘われるままに近くの淡島神社へでかけてみた。横浜市都筑区の此処は、江戸名所図会にも紹介されている由緒正しき神社で、和歌山の淡島神社より分祀されたものであるという。ならば、何らかの神事が行われる筈と期待してのことであったが、残念ながらここではお雛さまの影すら見られなかった。ただし当日は大祭で神輿が出ていたし、針供養も行われていた。
淡島神社は縁結び、子宝、さらには織りの神様でもある。むかしの女は、早く良縁に嫁ぎそして丈夫な子供をたくさん産むことが何より望まれた。それに加えてお針、織りの名手であれば家計を助けるたいした嫁だ!と世間からも尊敬された。いわば淡島神社は、そんな女たちの万願い承り処(よろずねがいうけたまわりどころ)であったのだ。だからこの日の針供養はもちろん、大祭も桃の節供に拘わるものであろうと思ったのだが、「針供養はやるけど。ここは女の人の神様祀っているから。でも昔からここの祭りの日が3月3日だったってだけで、雛祭りとは内容はぜんぜん別のものだよ」
と世話人はあっさり否定する。「近ごろは神輿の担ぎ手がいなくって」と、桃のことよりそっちの方が気に掛かるらしい。神輿は2基あるが一基しか出さないという。拝殿の傍らにこの日の欠番を余儀なくされた神輿が鎮座していた。その神輿を薄桃色の造花が飾っている。「ややっ! 桃の花だ。やっぱり桃の節供にちなんだ祭りなのだ」と符号を見つけ、一人興奮したのだが「桃の花ともいえるし、桜ともいえるし」と、これも又曖昧だ。 そういえば、境内を見渡しても桃の木は一本も見当たらない。今や盛りと咲いているのは、下の駐車場の数本の梅の木と、針供養の石塚の背にある薮に潜んで光る紅椿だけだ。
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季節柄からいえば梅の節供、椿の節供としても良さそうだし、旧暦ならば尚のこと桜の方が相応しそうだが、そうは言わない。あくまでも「桃」なのは、もともとこの行事が中国から入ってきたからである。
桃は中国では不老長寿の仙果であるが、古来より3月3日に花見の宴を張り桃の花びらを酒に浮かべて飲むなどしたそうだ。これは季節を迎えるにあたって行う禊のイミがあるとのことで、これが日本に影響し今日あるのは、5月の節句、7月の七夕など他の節会と同じことである。
桃と女の節句との拘わりは、さまざま言われているが、昔から桃が安産多産、つまり子宝のシンボルと見られてきたことが大いに関係していると思われる。加太の淡島神社でも、御神祭が下の病で嫁ぎ先から追われたのが3月3日という俗説があるそうだ。
雛祭りは本来、ひと形に作った藁や紙に厄や災いを託して流したことに始まる。そこにはもちろん健康や幸福の祈りが込められていたのであろうが、女の一生にとって結婚して子宝に恵まれることが何より、の時代にあっては全ての幸せは安産多産に尽きたのかもしれない。まさに桃は女の子の節供を彩るに相応しい花なのであろう。
「雛祭りが終わったら次の日にすぐに仕舞わないとお嫁に行きそびれる・・・」などと今でもいうコトバに、その名残を感じさせる。
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桃が子宝の象徴としてみられたのには、まるまるとした実がいかにも元気な赤子を思わせるだけで充分という気がするが、民俗学を説く諸先生方によるとさまざまな理由があるという。まず桃栗3年柿8年というように実を結ぶのが早い。そして何よりその実の構造に秘密があるのだという。桃の種は実の部分に直接付いておらず核という丸い芯の中に抱かれている。それが子宮が新しい生命を抱くかたちを想像させる。さらにその核は2つにパカリと割れて、中に子種を宿している。それはまさに命が産まれる不思議とパワーを孕んだものだというのである。
同日、横須賀市の芦名の淡島神社でも、安産祈願の柄子奉納が行われたそうだ。今に残る形は違っても、やはりここ淡島神社の行事にも桃の節句との拘わりがあるような気がするのだけれど。
帰り道、駐車場の際でノビルを見つけた。ヨモギが若葉を出している。建築中のビルの敷地の隅にフキノトウが覗いていた。桃の節句にはヨモギ餅も食べる。これもまた折々の行事にその季節の大地の勢いを体に取り込んで、エネルギーを備えようとする古来の人々の知恵なのだろう。摘んできたヨモギとフキノトウを天麩羅に、ノビルは味噌を付けて夕餉に食べた。ほのかに春の香りがした。
文・写真:菅野節子
出典:日本女性新聞—平成10年(1998年)3月15日(日曜日)号
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