読谷山怪文書3
川床の灯りが鴨川の水面にきらめくのを見るたびに、私がいま京都という街に住んでいるという事実が嘘みたいに思える。4年経っても、だ。
雪国から京都の大学に出てきて4年目の夏のことだ。8月も終わるというのに就活がうまくいってなかった。今日もうまくいったんだかなんだか分からない面接を終えて京都駅から帰るところだ。
こういうよくわからない気持ちのとき、私は鴨川の脇を通ることにしている。四条から川床を眺め、観光客の流れに逆らい、北へ向かう。何でもない日を何か特別なように思わせてくれる、そういう道のように思えたから。
いくらか歩いて少し疲れたころ、休憩がてら入ったコンビニでひらめいた。今日はビールでも飲もう。缶ビールを買った足で鴨川デルタに向かう。賀茂川と高野川の合流地点。地質学的にはまったくデルタではない三角地帯だが、いつからかそう呼ばれ続けて既成事実となってしまった。
デルタに降りていく時から見えていたのだけど、文乃がそこにはいた。大学の同期。喫茶店同好会の新歓で仲良くなった。二人ともサークルには入らなかったけど、ときどき喫茶店巡りをしたり、買い物に行ったり、五山の送り火を見たりして京都の大学生らしい日々を過ごしていた。
私と違ってさらさらした栗色の髪の毛がきれいで、うらやましかった。
「面接だったの?」
いかにもシュウカツです、といった感じのブラウスを身に着けた私を見て文乃は言った。
「そう」
「どうだった」
「よくわからん」
そっか、と言って彼女は笑う。文乃こそどうしたの、と尋ねる。
「映画見てきたの、出町座で」
どうせ変な映画でも見てきたんでしょ、なんて軽口をたたいた。夕陽に照らされた文乃の細い髪がきれいだった。珍しく首筋に汗がうっすらと浮かぶのが見えた。
他愛ない話を続けるうちに、いよいよ日が沈んだ、鮮やかすぎる夕やけにデルタが包まれるころ、私は何の気なしにビールの缶を開けて飲み始めた。
「ここってさ」
文乃が、何かいいことを思い出したように言う。
「鴨川デルタって、世界の中心って感じしない?」
とてもよくわかる。本当にその通りだよ文乃。黄昏時のわずかな間だけど、鴨川デルタは、その先端は世界の中心なんだ。
「あー、わかるよそれ」
穏やかに答えた。でもね、文乃も感じているだろうか、このデルタが世界の中心でいてくれるのは、たぶん大学生の間だけなんだよ。一切の社会的立場とか義務とか、そういうよくわからないものから逃れていられるせいぜい4,5年だけのことなんだ。きっとそうなんだ。
変な感傷に浸って突っ立っていると、文乃がぱっと私の手から缶を奪った。あっと言う間もなく文乃はビールを飲んでしまった。
「久しぶりに飲んだけど、意外と悪くないかも」
あっけにとられる私をよそに呑気に言った。私は、文乃が豪快にビールを飲むところなんて見たことがなかったから、おかしくなって笑ってしまった。つられるように文乃も笑った。二人の笑い声がデルタに響く。
実際のところ、文乃の進路についてよくわからなかった。大学院に行くわけはないだろうし、かといって就活しているようにも見えなかった。でも、よくわからないのは、結局のところ自分も同じだった。それらしく就活をしていても、必死になって内定をつかんだとして一生そこで働くイメージなんてカケラもなかった。京都という異様で特別な街で時を過ごしても、やがては去り行くことを二人ともよくわかっていた。
「文乃はさ、これからどうするの」
「んー、わかんないな。でも、なんとかなるんじゃない」
私も一緒だよ。なんにもわかんない。でも大丈夫なんだ。だって、いま私たちが立っているのは世界の中心なんだから。
すっかり日も暮れて、空は紺青に輝いていた。二人は佇み、ただ、かろうじて涼しい夏の夜風が私たちの髪を揺らしていた。
追記
紀貫之です。本当です。女性しか出ない話を書きました。本当です。
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