Sing J Royの旅
その訃報を知ったのは、与論島で何気なくFacebookを見ていた時だった。そのFacebookには名前は出てこなかった。ただ、福井のミュージシャンが亡くなった、そのことだけを伝える内容だった。2006年から2015年まで住んでいた福井。ミュージシャンとは誰だろう。その名前がわかるまでに時間はかからなかった。
Sing J Royさんが亡くなった。
あまりに信じられないので、他の人のFacebookを見た。そして、本人のFacebookにお兄さんからの投稿があって、そのニュースが本当だ、ということがわかった。本当のニュースなのに、信じられないこと。信じたくないこと。
2022年3月28日の朝。仕事に向かわれる時に亡くなられたという。
心臓麻痺とのことだった。
与論島から戻り、次の日はずっと前から決まっていたオンラインイベントがあったので、30日のお通夜には参加できなかった。次の日の2022年3月31日、朝の5時30分に和歌山から福井に向けて車を走らせた。
その頃まで実感はなかった。ただ和歌山から福井まで4時間かかるドライブ、ついつい車内の音楽をSing J Royの楽曲にしてしまった。よく知っている「NO MORE WAR」「ほやほや」アコースティックバージョンなどがApple Musicから流れてくる。もう通常の心のありようではいられなかった。滋賀県に入る頃には、一旦車を止めるしかなかった。しばらく動けなくなった。勝手に涙が出ていた。
ずっと聞いてきた、当たり前の曲のはずだったのに。
Sing J Royさんとの出会い
Sing J Royさんには、私がまだ福井に住んでいた頃、福井工大がスポンサーとなっていたコミュニティFMの番組のMCをつとめていたので、その時に何度か出演してもらった。また私もDJをしていたのでクラブには出入りし、レゲエのイベントに行く時には、彼に会うことも多かった。それ以外にもまちづくり関連の企画をしていた頃、「福井七夕祭り」に合わせて武生から福井に向かう福井鉄道の中で車内コンサートをしてもらったこともあった。
この福鉄電車内コンサートは、私自身がイベンターとしての能力が足りなかったから集客に失敗。それでも少ないお客さんたちを本当に楽しませてくれた。
いつ、私はSing J Royを知ったのだろうか。
福井に赴任した当時に、ラジオから流れるヘビーローテーションで「ほやほや」が毎日のように流れて、おそらく、そこで彼の名前を覚えたように思う。福井のラジオの音源を確認してみた。はじめてラジオに出てもらったのは2009年5月21日だった。その音源を確認すると、どうやらこの時が初めて彼と話すことができた日だったようだ。その前に2008年に福井の花堂のベルで、El-rayさんが主催したイベントに出演していたのを見ていた。
音源を確認すると、2009年5月21日、2009年7月9日、2009年9月17日、2011年7月7日。少なくとも4回出演してもらっていた。
福井を代表するレゲエシンガーとして
Sing J Royさんは2008年のベルのイベントで言われていた、「自分もこうやって音楽だけで食えるようになった、だからみんな夢を諦めるんじゃない」と。その頃のイベント、響のホールで開催されたイベントでも確か同じようなことを言われていたと思う。
実際、2010年頃にDanne the recordsを立ち上げられて、福井の後輩たちと一緒に楽曲を作り、Ustreamをつかった配信も毎週のように行われていた。一生懸命、音楽だけで食えるミュージシャンを育てていこうとされていたんだろう。私がつとめていた福井工大の授業でTakahiさんの曲のMVを作ることになった。Danne the recordsがつくるアルバム「My Town」収録される「For you」のMVだった。同じアルバムには彼がPETER MANと一緒に歌った「感謝」が収録されていた。
この頃がSing J Royさんが福井の音楽シーンでチームとして最も活発的に動かれていた頃だろう。それまでに所属したレーベルから自身のレーベルに所属を変え、そして自分の後輩たちにも音楽だけで食っていけるように、とすごく頑張られていた。またメディアへの露出もどんどんと増えていた。毎週日曜日に「にっちょにAOSSA」というラジオ番組も持たれていた。確か、一回だけ出演させてもらった気がする。
一方で福井の沖縄居酒屋、南風で偶然一緒になった時のことを思いだす。彼がとあるイベントに呼ばれて参加することになった。後から聞いたらそこは原発関連の予算をもらっているイベントだった。だから、ギャラをもらわないことにした、という話だった。彼の信念の強さを感じたときでもあった。
震災のあと
そして、2011年3月11日。おそらく、彼が警鐘していた現実が起こった、そう思われたことなのだろう。その頃に生まれたMVはとても美しい。
それ以後の彼は、反原発運動、そして大飯原発の再稼働に反対して、福井県のブランド大使の辞任を表明など、そして政治的なところにも踏み入れていく。
この頃は、街中で、Sing J Royさんと原発のことについてもいろいろお話しをすることもあった。彼は決して、自分の信念と違う意見を全く聞かない人ではない。それぞれの人が思うことをしっかりと聞いた上で、お互いの尊敬を忘れない人。
ただ、レゲエの言葉でいう「Babylon」を嫌う、そのことはブレない。たとえ、政治的には同じ方向と思える人たちでもその中に「Babylon」を見つければ、彼はそれと離れていく。政治的に旗手として見られつつあった中でも、彼はそれから離れていった。
この頃の彼は、かつて自分自身の成功の証拠でもあった“音楽だけで食っている”ことを言わなくなり、Twitterでもバイトをしていることを公然と書かれていた。毎日のように、今日はどこでバイトしている、と書かれていた。彼にとって大変な時期だったのではないだろうか。そして、目に見えて、福井における既存メディアでの露出は減っていた。
そして全国へ
その頃の彼は、よく九州方面に投げ銭ライブに行ったことをうれしそうに語ってくれていた。九州の熱さ。固定されたギャラでいくのではなく、投げ銭でライブをやる楽しみ。そういうことを聞いていた。
そして、2015年の1月に長崎県高島の高島中学校で地元の子供達と楽曲を作るワークショップの講師をされたことは、彼のその後の音楽のスタイルに大きな影響を与えたのではないだろうか。「タカシマタカラジマ」のMVには彼の新しい世界が表現されている。
もともと福井県内では音楽制作ワークショップや福井弁の歌の講座などをされてきた。それだけではなく、それこそ全国の小学校でもどんどんとワークショップを繰り返していかれる。大学からも注目されて、講師をされることも多くなっていった。そして、2011年3月11日の被害地にも赴き、楽曲を地元の子供達と作っておられる。
福井での別れ、それから
私自身は2015年3月で福井を離れることになった。確か一度、メトロ会館の一階にあった缶詰バーで一緒にイベントを行ったことはあった。また、Cremeの年末のカウントダウンパーティで一緒になったこともあった。しかしそれまで、自分のイベントにSing J Royさんを呼んだことはなかった。私のイベントはHouseで、のちにそれにJ Popを加えたものになっていったので、彼の音楽とは違ったから、それが理由だったように思う。でも、福井を出る前に最後にイベントを打ち、そこには彼にでてほしかったので、出演を依頼した。本当はセレクターは他にいたはず。でもSing J Royさんは私にセレクターをしてほしいと言っていただき、初めてレゲエのセレクターをつとめた。
和歌山大学観光学部に異動した私。そして全国でご当地レゲエミュージックを作るSing J Roy。Facebookでは彼のリリースのメッセージが届く。そのたびに、いつか観光のことで仕事したいですね、という私の言葉。
ある日、Sing J Royさんから電話があった。
食育の歌
Sing J Royさんも2015年頃に福井県の観光大使に復帰し、福井のことを全国に発信したい、ということを言われていた。数年前から石塚左玄の食育をテーマに音楽を作りたい、という構想は聞いていて、その映像をお願いしたいということだった。彼が発売する3rdアルバム「Heart Beat」に収録される「食育の歌」だった。
うれしかった。尊敬する方の楽曲に関われることがうれしかった。しかし、いただいた曲はMVにするには難しい曲だった。正直どうやっていいのかわからなかったが、彼は暖かい目で企画を待ってくれた。
事前にいろいろと調整をして、私も福井に行っては福井の風景を改めて撮影していく。福井の食材のこととかもいろいろと教えていただく。曲のリリック一つ一つが深さを噛み締めながら、企画をつめていく。
福井工大の学生たちを集めた、撮影日。私が慣れないMVの撮影で現場で悩んでいる時も彼は待ってくれた。そして、撮影が進んでいく。あとは夕焼けの実景だけ、私たちだけで撮ってきますよ、といっても最後まで撮影についてきてくださった。
また、福井工大の教室を借りた、Sing J Royさんの出演予定がなかったワンシーン。彼は見るだけが寂しかったのか、その背景に映り込んだ。いい絵だな、と思い、学生に、それまでの悲しい顔ではなく、笑顔をお願いして撮った映像が、アルバム「Heart Beat」の発売の告知CMになった。
True Love
食育の歌のリリースから時間が経っていた。彼からは新しい楽曲のリリースのお知らせがFacebookで届く。私が滋賀県甲賀市の観光戦略委員長をしていること、彼の知り合いが甲賀で活動していること、何か甲賀でできないだろうか、そんな話もあった。授業で食育の歌を紹介したこともあった。
そして2020年4月以降。持病の喘息があるSing J Royさんは自宅に娘さんと一緒に二人っきりで過していることを言われていた。だから娘と一緒に作曲をしている、と。それが逆にいい時間の過ごし方ができている、そういう話をしていた。
そして彼からの電話。今度はTrue LoveのMVを撮って欲しいとの依頼だった。
もともとは、ワンチャン、一緒に東京に行って、今の風景を撮ろうという話もあったが、その当時のコロナ禍の状況を考えると移動は難しかった。だからこそいっそのことZoomで撮影して、それ以外は木川の持っているこれまでの撮影素材で映像を作ろうということになった。上の動画はその時にどんな風な構成にするか、などをZoom会議で行っているところ。
曲は、彼が多くの人たちとアポをとってくれて、彼らが曲を聞き、そしてメッセージを受け取り考えるそういう映像にした。
食育の歌とは違い、何度も何度も話し合って作った映像だった。この場面はこう思う、でも私はこの意図はこうなんだ、なるほど、それならそれでいきましょう。
そして、彼が映像が完成し、それを奥さんに見せたということを話してくれた。その時に、奥さんが泣き出したので、とてもびっくりした、そんな話を聞いた。
Sing J Royの旅
True Loveのリリース後、また再び、Sing J Royさんのリリース情報だけをFacebookで受け取る日々が続いていた。でも、2021年のどこか、福井に行った時に、彼がAmerican BAR STARでバイトをしているときに、会いにいった。それが生前の最後の別れとなった。
2022年3月31日。5時30分に和歌山を出発。9時45分に福井市木田の葬儀会場に到着した。Sing J Royを知る彼の友人が多くいる会場に入る時には、涙が止まらなくなっていた。
私はSing J Royを知っていたはずなのに、全然知らなかった。彼から届くリリースの案内とGigafileのダウンロードアドレス。正直なところ、すべてはダウンロードしてなかった。高速を走っている間にApple Musicから届く音楽のほとんどは聞いたことがない音楽だった。そして、聞こえてきた「旅」。
2017年にリリースされたこの曲は彼がイベントに合わせて手売りしていたCDに含まれていたらしい。今、Facebookを見返したら、その時期に聞いて欲しいと送られていた音楽だった。
こんな曲も歌われてたんだ。この曲を2017年に聞いていたら、きっと私は映画を撮りたいと言っていたと思う。今まで作ってきた映画はすべて曲に惚れたからだった。
もらった曲をちゃんと全部聴いておくべきだった。そして、もっと彼と話がしたかった。そして、彼から送られてきた、一緒にやりたいと言われた仕事をほとんどできていなかった。宿題だけがいっぱい残されていた。
10:00から始まった告別式。読経のあとの焼香。Sing J Royさんから聞いていた、そして彼のFacebookで知っている家族に一礼をする。Sing J Royさんがいちばん無念だろう。
そして、みんなと一緒にSing J Royさんの棺に花を納める。最後に彼の姿を見る。一緒に花を収めた方が、本当に眠っているようだね、とつぶやく。何度も何度も笑顔を見ていた彼の姿だった。
出棺の時。流れてきた曲は「旅」だった。
福井ではめずらしい青空の下の旅立ちだった。
本当は3月30日は日帰りのはずだった。でも、福井をこのまま離れたくない。友人と連絡を取って昼食を食べる。そして夜はこの3月で退職となる福井工大の先生と食事をする。会える時に多くの人たちに会っておきたかった。
すべての用事が終わり、ホテルに戻る。でも、寂しくて、Sing J Royさんとの思い出があるCremeに行く。すると、多くの人たちが集まっていた。シャンパンを開けて、Sing J Royの冥福をみんなで祈る。
Cremeでシャンパンの乾杯。みんなに言った。「本当に寂しい。僕がこれから福井と一緒に何かをしたい、と思っていたそんなことが全部真っ暗闇になって何も見えない。寂しい」。みんなが言った「みんなそうですよ。僕らも先が見えなくなった」。みんなに言った、「亡くなるのが早すぎる。彼はもっとすごい曲を書けたはずだ」と。でも、自分で言いながら口にした瞬間、それは違うと思った。
彼は十分にすごい曲を書いてきた。47年の人生で、ほんとうに、ほんとうに多くの人たちに寄り添い、そして歌でみんなに彼の情熱を届けてきた。
その歌はこれからも人々に届いていく。
次の日、福井市、鯖江、武生、と車で巡りながら帰路に着く。音楽はSing J Royの曲を聴きながら。どんどんと涙が溢れてくるのは、ただ私が彼をよく知っているという、それが理由ではなかった。彼の曲には彼がいるからだ。彼は歌っていたのではなく、届けていた。だから、いつも曲には彼がいる。
一人の偉大なシンガーが亡くなった。「旅」を何度も何度も聞いた。これは鳥瞰して誰かに向けて送る曲ではなかった。一人の旅人、その横にはいつもSing J Royがいる曲だ。ゴールは見えないけど、それぞれのゴールまで彼は一緒に歩いてくれる。
Sing J Roy、本当にありがとう。あなたに会えて本当によかった。