夢もチボーもないですね
20代前半のケコーンシュサーンを望む女性の数は、1970年代の半世紀前は至極セオリーのように多かった。
吉田拓郎が21世紀の藤井風やあいみょんといったフォーク系シンガーソングライターの先駆的存在であるのは周知の通りだが「ぼくの髪が肩まで伸びて君と同じになったら」結婚をしたいと言うのであるが…
LGBTだとか多様性だとかが世のセオリーになってきた昨今、若い子たちにとっては「どういう了見でこの歌を歌っているのだろうか?」となる。
かたや中年になりたての筆者の様な世代にとって親世代の言い分を代弁したこの歌は、高度経済成長期に入り始めの日本の、一億総中流階級社会の「テレビで一家団欒、サラリーマンは家族の幸せの為に残業・接待なんのその」な一般人の人生観の解釈において、何とかわからなくもない。
だが「とうとう自分らにも子供ができて伴侶にも働いてもらって、でもノマドワークやフリーランスが流行り出してるし組織に忠誠誓って残業・接待塗れになって幸せなんかな?」と想ってる同世代は多い。とはいえ離婚率の話で言えば個人主義と多様性の巨頭・スーパーパワーのアメリカにはまだまだ劣るが、SOCIAL NETWORKというものが生活の一部になってから「あなたと24時間一緒に居る事の不愉快さに耐え切れず離婚した」とか仰る人達も多いのではなかろうか。
多様性における自己表現でちょっと人々の注目を集められた自分の話に置き換えてみると「あたし、男も女も好きなんだ!」とかのたまう女の子に言い寄られることは多かったが、彼女たちに実際訪れる未来について考えてる体はなく「何となくノリでミチルちゃんと一緒に居ると楽しいから」そんな事を言ったのであって、結局は大真面目に夫婦で家庭を築き子供を養う為に一生懸命働き…という風になっていったのであって。
どうでもいいけど親世代の有名カルト漫画家・つげ義春の不朽の名作がWIKIPEDIAの英語版で紹介されている。
有名になり損ねた無名のセミプロ漫画家の主人公が女に二股かけられ、多量の睡眠薬を服用して自殺を図った「別離」も不朽の名作だ。ねじ式の原作が発売された1968年、筆者も絵師を志すべく一畳一間の山谷のボロアパートに住み込み…(という虚言で〆)