常に心に留めておきたい偉人の言葉 -2024/6-(週末日記#21)
先月は心に残る良書をいくつか読み、その中で大切にしたい考え方をうまく表した言葉との出会いがあったため、それらを書き残しておく。
この記事を読んでくれる方の心に響く言葉や人物との出会いの一助にもなれば幸いだ。
偉人の格言・故事成語
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
これは江戸時代の大名である上杉鷹山が部下に対して詠んだ歌だ。
意味を直訳すると「やればできる。何事も行動に移さなければ成功することはできない。成功できないということは行動に移そうとしていないからである」となる。これはよく耳にするものであるため、あまり心に残る言葉のように感じられないが、僕はさらに深い意味を考えてみた。
ここでいう「成る」ということは成功のことだけを言っているのではなく失敗も含めたその過程を指しているように思えた。行動をしたとしても失敗をする可能性だってもちろんある。様々な失敗を経験してきたであろう江戸時代の大名がそんなことを分かっていなかったはずはない。
そう仮定すると、この歌は単に行動しなければ成功しないということではなく、結果がどうであれ、行動することによって生じる全ての結果が正であるということを主張して詠んだ歌のように思える。
行動をすることによって、成功すればもちろん良いし、失敗したとしてもそれは成長できる機会を得たと解釈できる。これらを正とするならば、すなわち、行動しないことこそが真の失敗なのである。ということを言わんとしたのではないかという解釈だ。
この解釈の正誤は分からない。しかし、それはこの言葉だけに限らずどんな人(本人も含む)のどんな言葉であれ、真の意味を理解することは不可能だと思う。
言葉というのはその瞬間の環境、精神状態、考えていること、過去の経験などに基づいて出てくるのもであって、全く同じ環境を二度作り出すことは不可能なので、後になって本人が振り返ってみてもそこに存在していた意味を完璧に理解することは不可能だ。それが一昔前の人の言葉となればほんの一部分しか捉えることはできない。
しかし、どんな捉え方であれ自分なりに解釈し、吸収することによって、たとえ本来の意味とは違っていても自分に良い影響を与えてくれるならばそれで良いと思う。
僕はこの上杉鷹山の言葉を「考えるべきことは成功か失敗かではなく、行動したか否かである。それ以外の何事も評価対象として捉えるべきではない」と解釈し、常に心の中に留めておこうと思う。後にこれが間違えていると分かった時にはそれまでだ。自分にあった形に整えて吸収すれば良い。
おもしろき こともなき世を おもしろく
これは元々、“おもしろき こともなき世に(を) おもしろく 棲みなすものは 心なりけり” という、前半は高杉晋作が、後半は野村望東尼が詠んだ合作であるが、名前が知られている高杉晋作が詠んだ部分が抜き取られて伝えられることが多い。
高杉晋作は幕末期に明治維新のきっかけとなった重要人物の一人である。彼がいなかったら今のような日本は存在していないと言っても過言ではないだろう。
この歌の意味は「本来おもしろくない人生をおもしろく過ごしてみせよう」といった少し皮肉じみたものである。
人生というのは自分の思い通りに行かず辛いものであるということを前提として詠んでいるが、これは彼の短く(27歳で肺結核により死去)儚い人生を物語っている。高杉晋作は今になっては英雄のように崇められているが、その当時はお金の使い方が荒く、留学のためにもらったお金をすべて風俗に使ってしまったりと、散々なものだったと言われている。
このように、何事もうまく行かなかった彼の人生だが、それを踏まえてこの歌をもう一度詠んでみると、「人生という大きな逆境の中で、幸せを見つけ辛いことをも楽しみに変えなければあなたの人生は一生楽しいものにはならない」と人々に投げかけているように感じられる。
辛いことは当たり前だ。自分だけが辛いのではなく人生とはそのような苦難の繰り返しなんだと思う。そんな中でも楽しみを見つけることができるように己を修め精進していくことで、このおもしろくもない人生をおもしろく過ごすことができるのだ、ということを改めて考えさせられる言葉である。
実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
これは五七五の形のために俳句のように思えるが、そうではなく故事成語、いわゆることわざである。
「賢者は成長していくたびに謙虚になっていく」ということを実っていくにつれて頭(こうべ)を垂れていく稲穂に例えて書かれた諺である。
まず、稲穂というこれ以上にない的確な単語でこれを表現したことに感心した(この諺のように長く伝え続けられる言葉というのは秀逸な例えを含んだものが多い)。
次に、この諺の意味について掘り下げてみると、
普通の人は、お金を持つようになったり、役職が上がったり、能力が周りより優れたものになっていくにつれて謙虚さを失ってしまう。そのため、そういった人の成長はそこで止まり、大事を成し遂げることはできない。しかし、逆に賢者は精進していくにつれて謙虚さが増していきその成長の速度も上がっていく、と解釈した。
最近「老害」という言葉が出てきたが、この言葉からもわかるように、歳を重ねるにつれて人は謙虚さを忘れてしまうのだと思う。自分の経験だけを頼りにして新しい考え方を受け入れることが難しくなってしまうからだ。
仮に、自分が歳を取って人の上に立つようなことがあった時には、そのようにならずに、常に謙虚な姿勢を忘れずにいたいと思っている。革新が生まれ続ける良い組織にはそのようなリーダーが必要だ。
人生生涯小僧のこころ
これは千日回峰行という千日間山の中を往復40km以上を歩き続ける行を成し遂げたお坊さんが書いた本のタイトルだ。
この行は言葉の通り命懸けである。もし千日中一度でも時間内に山から戻って来れなければその場で切腹をするか首を吊って自害しなければならない(これは昔の話ではなく実際に行われている現在の話だ)。
そのような想像を絶するほどの苦難を乗り越えた先には何が見えるのか気になり手に取ったが、学ぶことが多かったため、その中でもメモに残していた言葉をいくつか記しておこうと思う。
"あえて苦しみの中に身を投じてみるというのは環境をそのまま受け入れるということ"
行というものは誰に言われてするものでもなく自らが “行じさせていただく” ものだと阿闍梨(あじゃり: 千日回峰行を完遂した人の呼称)さんはおしゃっている。
人にやらされた苦痛は苦とでしか捉えることができないが、自らが進んで苦痛の中に身を投じることで環境をそのまま受け止めることができどんな困難をも乗り越えることができるという意味だ。
いくら苦しくても自らが願ってするものであればため文句の吐口がない。したがって環境をすべて受け入れることしか進む道がないということだ。全ての人間は弱くて脆いので逃げ道があると必ず逃げ出してしまう。しかし、もし苦悩の先に望んでいるものがあるのだとしたら、逃げ道を自らが塞くことで非常に辛いが、その分目標達成率は格段と上がる。
これを山を下って降りる、それを達成できなければ死という極端な状況を想像したために単純な解釈ができるが、僕たちがこの考え方を普段の生活に落とし込むのは容易ではない。
さらに解釈を深ぼってみると、自己実現というのは「始→苦痛→達成→満」という道を必ず通るのだと思う。目指している頂が高ければ高いほど、苦痛はましていき、この苦痛は人にやらされているという弱い志の上では必ず乗り越えることができない。
すなわち、自らが意志を持ち、その先にあるものを得るために苦痛に身を投じる、それを耐え抜く方法は「己が苦痛を感じているのはなにも特別なことではなく、当たり前の通過点であることを認識する=苦痛という環境をすべて受け入れる」ということを阿闍梨さんは伝えようとしていたように思える。
"空気も吐くから吸えるように、愛情も与えることにより自分にも返ってくる"
この言葉は単純に愛情というのは自然の流れと同じように、与えることをしなければ返ってこないということだろう。
しかし、阿闍梨さんがさらに言わんとしていることは「愛情というのは100<->100の関係でなく、0<->0である」ということだと思う。すなわち、与えた愛情すべてが返ってくることはないが、一つも与えなければ返ってくるものはない、ということだ。
見返りを求めて愛情を振り撒いても何も意味がない。思いやりをもって与えることだけを意識して行えば、望んでなくとも結果として愛情が返ってくるということを言っているのだと思う。
「足ることを知ること」と「人を思いやること」
つらつらと長く書いてしまったが、上で記した二つのことを阿闍梨さんは簡潔にまとめてくれた。
それは「足ることを知ること」と「人を思いやること」である。
人間は弱く誰一人完璧な人はいないということを知ることでどんな苦痛も耐え抜くことができる。あなたは足らないのだからできなくて当たり前なのだ。
人への思いやりは人が社会的存在である以上、生きる上で非常に重要なことだと感じる。アドラー心理学で有名なアドラーも人の全ての悩み事は人間関係によるものだと説いた。オックスフォード大学で80年間に及んで行われた幸せの研究でも、幸福度を最も左右するのは人間関係であると結論付けらている。そしてこの関係を築く上で最も重要なのが思いやりだ。
思いやりとは、感謝すること、謙虚であること、人が喜ぶような行動をすること、の三つだと思う。
日本では儒学的な考え方が主流なため道徳を重要視する文化が根付いていて、このような考え方はよく耳にすると思う。だが、本当の意味で人への思いやりができている人は少ないと思う。知識というのは行動に移して初めて己のものになるからだ。
締め~行動力と謙虚さ~
締めを書きながらこの記事で記した言葉たちをもう一度振り返ってみたが、自分はもっぱら行動と謙虚を己の哲学にしたいらしい。
心に残る言葉というのは共感できることがあったり、自分には足りていない何かを気付かせてくれるようなものが多い。逆説的だが、ということは自分には行動力と謙虚さが足りていないということになる。周りとの比較ではなく、自分が設定している基準との比較でだ。
足りないものを得るためには訓練も必要だが、この記事で書いたような言葉たちにリマインドしてもらい常に心の中に留めておくことも大切だと感じる。人は良い経験はすぐに忘れてしまい、嫌な経験をより鮮明に長く記憶する生き物だからだ。
そうなってしまいそうな時にこの記事が自分と、さらにこれを読んでくれる読者の姿勢をも正してくれるものになることを願っている。
では、また次の記事で。