“楽”であることは必ずしも“幸せ”なことではないのかもしれない(週末日記#20)
よく「お金を稼いで楽に生きたい」、「楽な仕事を探したい」と言った言葉を聞く。考えが足りなかった高校生くらいの自分もそう思っていたと思う。それを否定するわけでもないし、不正解だというつもりは微塵もないが、少なくとも今の自分には合わない考え方だということを最近感じている。この記事は、なぜ楽なことは必ずしも人を幸せにしないのか、それをできる限り避けるためには日常の中でどんな意思決定が必要なのかを記して、誘惑に負けてしまう弱い自分を正してくれる羅針盤とすることを目的とする。
なぜ楽なことは必ずしも幸せにつながらないのか
幸せの定義
幸せ及び幸福とは、一般的に「心が満ち足りて、不満がないこと」のことをいう。
人は古来から幸せになる、幸せであり続ける、ことに深い関心を寄せているように思える。心が満ち足りるということは自分の人生に満足し、それ以上望むことがないことを言う。人はここでいう「幸福であり続けること」のために生きているといっても過言ではない。今までもこれからもこれは変わることはないだろう。
楽なことだけをする人生は幸せか
FIREと言われる早期退職や定年退職後の人たちが、精神的に病んでしまうといった社会現象をここ数年で良く耳にするようになった。
彼、彼女らは仕事を辞めて、比較的に楽で自分が好きなことだけをできる生活を送れるため、さぞ幸せかのように見える。だが実際には、自分が本当にやりたいことが見つからなかったり、何をしても時間が余ったりするがために精神病に陥ってしまう人が多いという。いわゆるバーンアウトというものだ。
この例からも分かるように、人は楽が好きだ。楽なことだけをして苦労が無い人生は幸せになるように思える。しかし、必ずしも「楽な人生=幸福」というような式は成立しないみたいだ。
なぜ人は楽が幸福に繋がると勘違いしてしまうのか、じっくり考察してみたい。
楽な選択=短期的な利益
「自分の趣味は、家でスマホをいじりながらゴロゴロすることです」という言葉を聞いても珍しいとは思わない。自分も誘惑に負けて、他にやることがあるのにスマホを触って時間を浪費してしまうことがある(いち早く改善すべきだが)。これは「理性」ではなく「欲」に基づいた行動と言える。
その欲に任せて何も得ることのない時間を、仮に、英会話に費やして英語を話せるようになり、将来のキャリアアップに繋げることによって(給料が上がり、したかったことをできるようになったりして)幸福度を高める、という方がより合理的であることは小学生にでも理解できるだろう。
だが、実際に人は楽に得ることのできる目前の利益の方が魅力的に感じてしまい、その瞬間に合理的な選択ができない。もしくは、そういった楽な選択を取ることが自分の幸せに繋がると勘違いしている場合が多くある。
神経学的にいうと、この「欲に基づいた行動」というのは脳内にドーパミンという中毒性のある快楽物質を分泌させる行動である。この物質が一度脳内で分泌してしまうと、次回以降、同じ選択肢に直面した時に、無意識のうちに理性とは異なった、過去の快楽に偏った行動を選択してしまう。これが人が楽な選択をとってしまう原理だ。
人は、このように短期的な利益を求めるがために、長期的な利益を見れていない。
後からその行動を振り返り、その選択を後悔し幸福度が下がる。これが、楽な選択をとると幸福度が下がる理由だ。
幸福度を下げないためには
暇な時間を無くす
では、楽ではなく、何が人を幸せにするのだろうか。
その明確な答えというのは人によって若干ずつ異なると思うが、概ね正しいと思うのは自分の目標を達成する事、それに向けて直向きに努力する事、およびその過程だと思う。
人は何かに熱中している時、自分は幸せか否か、などといった無駄なことは考えない。
例えば、サッカー選手が試合中に自分の幸福度が足りていないことを深く考え、落ち込むことはない。
反対に、仕事を辞めた若者が家で携帯を触るだけの一日を過ごしてしまって、こんな人生で正しいのか、と悩んでいてストレスが溜まり、幸福度が下がってしまうということは日常的に世界のどこかで起こっている。
これを抽象化してみると「楽=必要最低限の労力だけを割く=考える必要のないことを考える時間(暇)が増える=幸福度の低下」というような原理が働いているように思える。
つまり、人は楽な行動を選べば選ぶほど時間を持て余し、無駄なことを考えるようになり、その結果として幸福度を下げる機会が増えてしまうというわけだ。
これは絶対条件ではないが、必要条件である。つまり、暇である人は必ずしも幸福度が低いとは言い切れないが、暇な時間をなくすことは少なくとも幸福度の低下を予防することに役立つということだ。
もし自分が日々の中で無駄に過ごしてしまっている時間が多く、それを後悔した経験があるのならば、暇な時間をなくす(=欲望だけに任せた自動運転モード)を少なくすることから始めてみるのが良いかもしれない。
大事なのはできる限り欲に任せた自動運転モードを避け、なんでもいいから目標に向かって熱中することだ。
心の持ちようを変える
これは大前提だと思うが、重要なことだと思うので記しておく。
人生を歩んで行く中で経験する出来事はマインドセット、つまり感情を適当にコントロールすることで、それを楽にも苦にもできる。
渋沢栄一はこれを意して「すべては心の持ちようひとつ」という言葉を残している。何を幸せと感じ、何を苦しいと感じるかはマインドセット次第だ、ということだ。
これができれば全ての問題は解決できるのだが、近代社会でこれを実践するのは容易ではないように思える。社会的な価値観というものが根強く蔓延っていて、それに人々は影響されて生きているからだ。
例えば、日本では、良い大学を卒業して良い会社に就職することが人生をうまく歩んで行くことにおいて大事だとされている。ほとんどの人がそれを自然なことだと信じて疑わない。
しかし、メタ的に観察してみると、これは社会という自分以外の多数が作った、元来存在していたシステムの中で生きているからこそ持つ偏った考え方だと思う。だか、これは非常に合理的な生き方でもある。この社会は、そうすることが最も生きやすい構造で作られているからだ。
これに従わず生きていくには相当の覚悟と精神力、能力を必要とするだろう。人は社会的な存在であるがために「周りに流されずに我が道を生き、どんな逆境をも幸せと感じる」ということは言葉以上に難しい。
しかし、心のもちよう一つを変えることによって、周りとは違う道を行き、それがどんなに辛い人生であっても幸せに生きることができる。感情と理性を支配すれば人生は自らが望んだものになるということだ。
これは一朝一夕で到達できる領域では無い。が、個人的にはそこを目指したいと感じている。
締め〜人間であるからこそ苦を選ぶ〜
ここまでをまとめると、楽な選択というのは人が生きる上で必要な熱量を奪う行動に繋がり、さらにそれは、人に考える時間を無駄に与えてしまう。考えても行動なしでは答えなど出ないのに考え続けてしまうので、結果、思い詰めて幸福度が下がってしまう。これが楽な選択が幸せにつながらない原理だ。
それをできる限り避けるためには、何かに熱中すること、それがキャリアであれ趣味であれ、結婚、家族であれ、明確なビジョンを持つことによって、それにつながる全ての行動に価値が生まれる。その価値のある道を進んでいる間は多少の浮き沈みはあれど長期的にみると幸せである、ということをここまで記してきた。
さらにこの議論に加えることのできる要素として、人間と動物との違いを考えたい。
人間と動物の違いは、理性の有無と社会的存在であることだ。動物は理性がないために欲に任せて(楽に)生きても不幸を感じないが、人間はそうはいかない。理性によって自分の行動が正しいのか正しくないのかを判断してしまうし、社会的であることによって周りとの比較を生み出す。これら二つの要素は動物にはない。
人は動物のように欲望に任せて自分がしたいと思ったことだけをして生きることは不可能らしい。どこかで自分の愚かさに気づいてしまうのだと思う。
そういう意味では人間は地球上で最も生きづらい生き物のように思える。
だが、人間として生まれたのなら人間らしく生きていくべきだ。目標を持つことがそれに値すると感じている。
「志を以って万事の源とする」
これは個人的に尊敬している偉人の一人である吉田松陰の言葉だ。
ここでいう「志」を仮に「目標を持つこと」とするなら、「すべての行動、選択は自分が決めた目標に基づいたものであるべき」ということを意している。
もし、あなたが自分の目標の道中で“目標に繋がらない楽“と“目標に近づく苦”の二択に直面したとしたら迷わず後者を取るといいだろう。人間が感じられる最大の幸福は常に苦の中に紛れ込んでいる。これは人生における真理のような気がしているからだ。
では、また次の記事で。