小説:こちらあみ子 (著:今村夏子)(ネタばれあり)
原作を読んで映画も見ました。
その感想です。
はじめに、この作品は受け止める方が自由に考えられるようになっているのではないかと思う。
なので、僕らしい解釈をしてみました。
主人公のあみ子は子供らしい子供だと思った。
自分の言いたいこと、思ったことを素直に言い放ち、実行してしまう。
そういう意味では素朴な性格だと思う。
だが、それが家族を含め周りの人間を嫌な気持ちにさせている。
あみ子に悪気はない。
それだけに人間関係が難しくなる。
この物語は、あみ子が田中家の長女として生まれ育ち15歳で一家離散になるまでの話である。
主な登場人物
田中家 家族構成
・父親(眼鏡が特徴)
・母親(書道教室、あごのホクロが特徴、義理の母)
・兄(孝太 不良になる)
・妹(あみ子)
・ノリ君(あみ子の憧れの男子 書道教室に通っていた)
こちらあみ子 このタイトルはトランシーバーの呼びかけの言葉、それは想像通りでした。
だが、その呼びかけに答える者は誰もいなかった。
そういう意味では、あみ子は孤独だったと思う。
あみ子が小4のある日、母親が妊娠して出産する、
その前にあみ子が誕生日が来て、
プレゼントで買ってもらった、
・使い捨てカメラ
・トランシーバー
・チョコレートクッキー
クッキーはチョコレートの甘い部分だけ舐めた。
それを憧れのノリ君にあげて教えもせずに食べさせた。
クッキーは何故か湿気っていた。ノリ君はそう言いながら食べた。
かなり気持ち悪い、変態だと思った。
カメラで生まれてくる弟を撮ろうと思っていた あみ子
弟とトランシーバーで遊ぶつもりでいた あみ子
その前に兄と交信しようとしたが繋がらなかった・・・
だが、楽しみにしていた母親の出産は流産で生まれなかった・・・
あみ子はあみ子なりに悲しんで弟の墓を庭に作った。
弟の墓、習字の上手なノリ君に頼んで書いてもらった文字。
それを母親に見せた。
母はその場で泣き崩れて動けなくなった。
母親を喜ばせようとしたのだが、逆撫でする結果となった。
この時からだろうか、家族の心がバラバラになったのは、そう思った。
兄の孝太は突然タバコを吸いだして、家にも帰らず不良になった。
田中先輩という名で恐れられる存在となって学校にも来ない。
何故???・・・それは家庭環境にあったのかもしれないが、ハッキリとは描かれてはいない。
映画の物語の大部分は原作通りに描かれていると思う。
だが、少し変えている所がある。
原作ではあみ子がノリ君に好きだと告白し、ノリ君にぶん殴られて前歯がぶっ飛んだとなっているが、
映画の劇中では鼻の骨が折れたことにしてある。
あみ子が告白して殴られたというより湿気っていたクッキーがバレたからなのだと思う。
もっとも成就はしなかっただろうが、気持ちだけなら殴られはしなかったと思う。
原作も映画も額面通り受け止めてしまったら、一家離散して引っ越す物語にしか受け止められない。
作者が伝えたかったことは、たぶん、人間は肉親であろうと、どんな関係であろうと
100%分かり合えることはなく特に強く理解できない関係になると孤独なくらい理解に苦しむ存在とある。
そんな人間関係を描いたのではないかと思うのです。
ただ、あみ子にとって唯一の味方である不良の兄は、
あみ子がベランダにいる幽霊を怖がっていた時に、兄の孝太が助けにやって来てくれたことだ。
子供の頃から妹の面倒を見ていた孝太は、これからも あみ子の味方でいてくれるような気がした。
それだけは唯一の救いだと感じた。
人間は100%理解しあうことは不可能だが、支えあえる関係
そういう人間関係は築けるのではないかと、この作品を味わってそう感じました。
最後に、小説の中に登場した 竹馬に乗って あみ子に会いにやって来る さきちゃん
その子は、あみ子の前歯がないのを見て大笑いする。
映画では、歯ではなく鼻だったので映像には登場しなかった。
15歳で祖母の家で、父、母、兄と、離れて住むことになった あみ子。
引っ越しの時になって流産したのは弟ではなく妹だったことを知らされた。
何故 家族はその思い違いを正さなかったのだろう・・・
きっと あみ子に何を言っても無駄だと思われていたのかもしれない
そう思った。
その後は描かれることはないだろうが、
ここから先の物語は、個人個人の想像となる。
原作や映画を読んだ方々は、どんな想像をしたのだろうかと思っています。