さよなら、ピオニー


「やっぱり好きだったな」
生まれて初めての独り言だった。




有休を使って平日の表参道に訪れた。


交差点のビルボードの広告の色味で秋になったことに気づく。
あ、もう9月か。
少しは気温もマシになったが、意外に半袖の人ばかりですっかり忘れていた。

せっかくのおでかけなのに、空は今でも雨が降りそうなくらいに暗い。


今日は香水を買いに来た。

彼が使っていた、あの香水。
名前は分からないけど、どの店のものかは分かる。

バカだなあとは思うけれど、
結局まだ忘れられていない。

だからこうして、
彼が使っていた香水を買いに来ているのだ。





彼とは3年付き合った。
初めての彼氏だった。

3年、3年かあ。
私ももう24になってしまった。

彼以外の男を知らずに、24になってしまった。


円満な別れ方ではない。

きっかけは彼の何度目かの浮気。

毎回決まって、同じ子だった。

私は彼との間に何か問題がある度に「許す」「怒る」「気づかないフリをする」のカードを使い続けてきたのだと思う。

その結果、最後の最後で手札に残ったカードは「もう無理」のたった一枚。
もう、私は限界だった。

それでも、心の底から好きだった。
彼しかいないと思っていた。

運命があるならきっと彼だと思っていたし、彼にとっても私が運命の相手なんだと思っていた。

でも、やっぱり違ったみたい。

運命ってのはそんな簡単にはいかないらしい。
そのくせ、運命は時に人を試し、乗り越えられない場合は容赦なく切り捨てる。

全くもって残酷なものだ。





重い扉を開くと1人の店員が迎えてくれた。

顎の長さで切りそろえられた黒髪のボブが可愛らしい。
ツヤツヤで、するんとしている。

彼女みたいに可愛いらしかったら
あの子のところになんか行かなかっただろうか。

目が合う。

「何かお探しでしょうか」と彼女は話を始める。

「探している香りがあって。でも、なんて名前か分からないんです。」

「左様でございますか。では、一緒に探しましょう。」

この店には香水が50種類ほどあるらしい。
どれもオシャレなボトルで可愛らしい。

私は彼女に香りの特徴を伝えた。

爽やかで、甘くて、少し大人っぽい感じの、、、

「なるほど、少々お待ちください。」

すると彼女は3本の香水をテーブルに並べた。

パッケージに描かれたイラストは香水の物語をイメージしているらしい。

「左から、チュベローズ、イチジク、オレンジブロッサムをテーマにした香りです。どれも定番の商品ですが、つける人によって香り方が変わって来ますよ。」

彼女は話を続ける。

「私は特にこのイチジクの香りがお気に入りです。お目当てのものがあるとのことですが、、、プレゼント用でしょうか。」

もうこの人と会うこともないだろうし、いいかな。
そう思い、私は全部話すことにした。


元彼の香りを探しに来たこと。
それがどの香水か分からないこと。


「痛い女ですよね、私って。」

全てを打ち明けると、
失礼致しましたと、一言詫びを入れた後に彼女は話し始める。

「私には、向き合う強さがあるお客様が羨ましいです。傷つく権利って、本当に愛していないと手にできないものなので。」

「そうですか?私は、弱い女ですよ。」

「弱くさせるような相手と恋愛をしてしまっただけですよ。」

お、結構踏み込んでくるな、この人。

「失恋って、どうしてこんなにもつらいんですかね」

「つらくない失恋なんて、寂しくないですか?」

「え?」

「本当に心の底から愛していたのであれば、つらいに決まってます。それだけ、自分の中に愛を育めていたってことですから。」

「確かに、そうかもしれないですね。」

「恋の始まりと終わりで、綺麗になれるって言いますしね。悪いことばかりじゃないですよ、ひとりも。」


そう笑いながら、手際よく彼女はムエットに3種類の香水を吹きかけた。

1本目、チュベローズの香り。
ふわっと花屋にいるような香りが広がる。時折出てくるジャスミンが可愛らしい。
愛されて育ってきた女の子の香りがする。
でも、これじゃないな。

2本目、イチジクの香り。
齧ったばかりのイチジクのような甘さだ。冬につけたくなるような甘くて柔らかい香り。
でも、これも違うな。

3本目、オレンジブロッサムの香り。
今までのよりもかなり爽やかだ。感覚が麻痺してくるような香り。これが似合う人って素敵だろうな、、うん。彼にはこれはまだ早すぎる。
よって、これも違かった。


その後もあれこれ彼女は色んな香りを試させてくれたが、彼に出会うことはできなかった。

この店のパッケージだったことは間違いないんだけどな、、私の勘違いだったのかもしれない。

「なんていうか、もっと意地悪な香りだった気がするんです。一見優しそうだけど、心の中は棘があるというか、、、でも、これだけ試してもないってことは、限定品とかだったんですかね。」


「限定品かぁ、、もしかしたら、、、!」



彼女はレジの裏から一本の香水を取り出して来た。

「もう廃盤になってしまったんですが、ピオニーの香りです。おそらく、お客様がお探しの香りはこれかもしれません。」

彼女がムエットに香水を吹きかけた瞬間、
胸の奥が締め付けられたのが分かった。



「これ、これです」

ほろほろと思い出が溢れていく。


彼の香りだ。

爽やかで、甘くて、少し大人っぽい
意地悪でずるい、好きだった彼の香り。

この香りに、たくさん傷つけられたのに。
私、何回も彼に傷つけられたのに。

どうしてこんなにも
愛おしい香りなんだろうか。

「よろしければ、どうぞ」

彼女がハンカチを差し出してくれた。



そうか、そうだな
私、泣くほどまでに好きだったんだな。


やり直せるなら、
この香りを知らずに生きて行きたかった。

でも、彼に出会わなかったら

今私はここにいないし、この気持ちも知らないまま普通に生きて、普通に働いて、普通の生活をしていただろう。

ちゃんと人を好きになれてよかった
ちゃんと傷つく痛みを知れてよかった


せっかくの恋
悲しいままで終わるのはなんだか勿体ない。

「私、この香りが好きだったんです。」

「いい香りですよね。優しくて、品があって。」

今日、ここに来てよかった。
私はこの香りとちゃんとさよならできそうだ。

「生憎廃盤となってしまった商品なので、お売りすることはできません。今出しているのも、偶然残っていたサンプルです。明日廃棄する予定だったのですが、今日こうして出会えたのも、何かの縁かもしれませんね。」

彼女は続ける。

「せっかくですし、他の香りも見ていかれますか?私、オススメしたいものがあるんです。」

またひとつ、彼女はムエットに香りをつけた。


「香りって、服や髪型と同じ、その日のコーディネートの一部だと思うんです。お客様には、きっとこの香りが似合うと思いますよ。」


渡されたムエットを鼻に近づける。

ハッとした。

「すごい、これすごい好きです。」

ペパーミントの香りが頭まで刺さる。
ところどころ憂いを感じさせるようなビターオレンジがまたいい味を出している。

「男性向けなんですけど、お客様にはなぜかぴったりだと思ってしまって。芯のある女性に付けてほしい香水なんです。」

「私、芯のある女性ですかね。」

「これから、芯のある女性になれますよ。」

「さっきから思ってたんですけど、結構踏み込んで来ますね。」

そう言うと、彼女は朗らかに笑った。





「ありがとうございました。」

重いドアを閉めて外へと出た。

いい買い物、そしていい出会いだったな。


さっきまで曇っていた空はすっかり晴れている。

秋晴れの空に飛行機が目立つ。

ひこうき雲が線を描いては、うっすらとまた消えていくように、このハートに付いた傷も少しずつ消えて、何事もなかったかのようにちゃんと見えなくなるのだ。

もう私も、私の時間を生きていい。

彼の一言で憂鬱に始まる朝も、会いたくて眠れなくなる夜も、もう来ない。

スマホとにらめっこして返事を待たなくてもいいし、あの子のインスタを鍵垢で監視だってしなくてもいい。


今思えば、彼は最後まで私のことを何にも知らなかった。

いつも寂しがっていたことも
本当は私からも会いたいって言いたかったことも目玉焼きにはケチャップ派ってことも
カフェなんかちっとも興味がなかったことも
あの子より私の方が可愛いってことも
本当はショートカットにしたかったこともだ。

彼の為に伸ばしていた髪、毛先はパサついてひどい有様。あの店員さんみたいに、可愛らしいボブにしてもらおう。

新しい自分に早く出会いたい。

そうだ、服も買いに行こう。
きっと、痩せてしまったこの体に似合う服がたくさんあるはずだ。

なぜだか足取りが軽い。

ねえ、私、あなたがいなくてもちゃんと生きれてるよ。

あなたとさよならして、幸せに生きてるよ。

だからあなたも、
あの子とそれなりに幸せになってね。



なぜだろう。
あれほど好きだったピオニーの香りが少しずつ思い出せなくなっていく。

今の私には、このミントが良く似合う。


もう私は誰のものでもないんだ。


彼がいないこの世界はあまりにも綺麗で
それが嬉しくて、悲しくて、ちょっと笑えた。



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