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言語化、いつまでもについて

■言語化について

ゆうべ、若干妻と言い争った。
ま、犬も食わない些細なことだ。その内容はさておき。

会話の中で言われた、「言いたいことがあるなら言って」という言葉を反芻している。
僕、これを言われることが結構人生で多かったような気がする。
母から、先生から、上司から、結構これ、言われてきたんじゃないかな。

うん。どんどん、指を折って数えられる程度に思い出していける。

だからこれはたぶん、僕側の問題なのだ。
僕はたぶん、他者と比べてこれを言われ過ぎていると思う。
知らんけど。ほかの人の人生。
きっと僕は、「言いたいことを飲み込んでいる」ように見えるのだろう。

なんでやろ。ルックスのせいかな。
考えてる姿が、我慢してるみたいに見えるのかな。

でも、本当はそうじゃないのだ。
僕的に、言ってないことは、「まだ言語化できていないこと」に過ぎない。

僕はどちらかというと口が軽いし、言わなくていいことを言ってしまうタイプの人間だ。人間関係とか社会規範を気にして言葉を飲み込むことなんて、ほぼない。
まあ、言う。自分の中で言葉になったことは、たいてい、言う。
そういうハイ。ランナーズハイみたいな、「言語化ハイ」みたいなところが確実にある。

だからこそ、黙ると逆に違和感が生まれて、「言って!」となるのかしら…。

一方で、僕は言葉のプロとしての自負というか、プライドみたいなものがある。
「言葉のプロ」っていうと冗談みたいだけども。
そんな大それたことじゃなくて、ツール、デバイスとして、僕はやっぱり文字・言葉を媒介して表現することに長けているのは事実だ。

だから逆に、「言いたいことがあるなら言って」と、僕、たぶんほぼ言ったことがない。
その難しさをわかっているから、具体化してリクエストしていると思う。
「じゃあ○○についてはどう思う?」とか「○○について聞かせて欲しい」とか。あるいは、「今どんなことを考えてる?」とか。

要するに「言いたいコト」が、「言葉」になってないから、「言えない」わけで。
それを「言う」ために、「考えている」わけで。
そこに、いつも、「言いたいことがあるなら~」と追い打ちをかけられてきた。

これ、マジであれなんやろな。
僕の顔というか、表情というか、「振る舞い」の外部出力がドヘタクソなんやろな。
あるいは、「福谷ほどの男が、今の想いを言語化できていないわけがない。絶対腹の中に言葉があるはずだ。なのにそれを飲み込んでイラついた表情をしている。言いたいことがあるなら言えや!」って思われてるんやろな。
強烈にナルシシズムな観点だけど、それなりに的を射てると思う。
基本的に「言葉にできる人」だからこそ、「考えてる」が通用しにくいのかも。

ほんでまた、「言いたいことがナイ」わけじゃないのが難しい。
ナニカはあるよ。どんなシチュエーションにせよ、あるからその状態になってるわけで。
だから「いや、言いたいことはないんですよ」とも言えない。

ああ、でも、振り返ると。
たぶん、ほんとにこれをよく言われてきたから、僕、言いたいことがあったら、言うようになったんちゃうやろか。
めちゃくちゃ言ってるよ、言いたいコト。言ってるほうやと思う。
余計なこととか、いらんこと、言ってる。
もしかすると、頻繁にそういう要求を受けて育ったからかもしれない。
言う方やろ、俺。どちらかというと。マジで。

むしろ僕は、「なんでもかんでも言うてええもんちゃうぞ」と言われた方がいいと思う。

■いつまでもについて

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