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演劇部の滋賀県大会16校分の感想
滋賀県高等学校演劇研修合同発表会で、審査をした。
ややこしいイベント名だが、要は演劇部の県大会である。と、「審査」と言いつつも、この滋賀県においては「投票権を持つ一人」というだけに過ぎないシステム。特に強い権利があるわけでもないので、「審査」はしっくりこない。どちらかというと「投票」だった。
ので、仕事としては「審査」というより「講評」にウェイトがあると思う。
16校、楽しく拝見したので、文章にもしておいた。
先にすべてを見終えて得た気付きとしては、「ライトに吸い寄せられる役者や演出、音響に影響される役者や演出っていうのは、主従が逆だから魅力に欠けるんだ」ということ。
良い感想を持ったお芝居は、「役者の合図でライトが決まる」。「役者の演技を、音楽がフォローする」。
本当に、ごく単純に、
<いまいちだったお芝居>
明かりがつく→そこに役者が入る。
音響が流れる→演技がそんな感じになっていく。
で、
<いいなと思ったお芝居>
役者が立つ→そこを明かりが照らす
演技が始まる→音響が追いかける
って感じだった。
なんなら「単にキッカケの問題」といってもいいかもしれない。
この「単なるキッカケ」が、舞台上の主従を大きく左右するんだな、と思った。
以下、各校の細かいこと。
の、前に余談。会場入りしたタイミングで、こんなポストをした。
今日から4日間、滋賀県高等学校演劇研修合同発表会で16校の演劇作品を見て評価して、最後にごちゃごちゃ喋る仕事。的確なことを言ったり、的外れなことを言ったりして、いずれにせよ嫌われて帰る仕事。
これが、「嫌々、渋々、審査に来ている」という印象を一部に与えていると聞き、慌てて削除した。確かにそう読める。そうではないという旨を追って投稿したので、本来の意図はそちらを参照していただきたい。
ただ、個人的には削除した内容のほうが、本音の気持ちの「本質」に迫っていると思う。
追って投稿したほうは、なんだか美辞麗句で気持ち悪い。
ので、改めて。
下記の文章は「的確なことを言ったり、的外れなことを言ったり」している。
「ごちゃごちゃ」言ってる。
ので、嫌われて然るべきだと思ってるので、帰ります。
そんな感じです。
比叡山高校「乗り遅れた私たち」
女子高校生と女子社会人が、電車に乗り遅れたことで出会い、友情を育む物語。
はじめはハプニングで電車に乗り遅れていた女子高生・音井が、秋音と会って話すためにやがてはわざと電車をずらすようになっていくという描写がテクニカルだった。
まず驚いたのは駅名看板を再現した舞台セット。高いクオリティの看板に、それらしいベンチのチョイスによって、そこにはたしかな駅が存在した。
しかしそれだけに、上手や下手にハケるときの動きが少し気になった。
本来「電車に乗る」という動きをするなら、客席に向かってまっすぐ前、あるいは舞台奥に向かってまっすぐ進まなければならない。しかしそれでは「去る」ことができないため、特に秋音は不自然に「下手へとハケていく」という動きをせざるを得なかった。
解決策としては退場のシーンを描かないつくりにしておくか、電車のドアが上手・下手に位置するような構造で舞台を組むしかない。今回は「二人は同じ電車ではなく、逆方向に向かう電車に乗ろうとしている」という事実を、退場を描かずとも電車を待つ姿(音井が客席側を向き、秋音が舞台奥を向くなど)でも表現することができる。そうすれば、「本来二人は、交わることがなかったはずの二人なのだ」という印象も観客に持たせることができる。
彼らの関係性は本来どういったものだったはずで、何があって、どういう関係性が生まれ、そしてどう変わっていくのか。それがこの作品の見どころである。
秋音と音井の友情が育まれていく過程は、楽しく見守ることができた。
しかし、そのきっかけとなる「落とし物を拾う」という出会いから、仲良くなっていく過程は非常に急速にも感じられた。秋音はなぜそんなにも女子高生・音井に積極的に関わろうとするのか。言ってしまえば、社会人・秋音はほとんど不審者だ。ドラマのセオリーとしては、「音井が今に線路に飛び込んでしまいそうな表情をしていた」とか、「青春時代を過ごした親友の姿と音井が瓜二つだった」とか、そういった事情を設定する必要があっただろう。
とはいえ、「マリトッツォ」や「ばいなら」といった前時代的な言葉を使う秋音の、やや突飛で過剰なキャラクターは、演劇ならではの強引な説得力をまとうことに成功していたと思う。逆に音井の演技には「コメディとして成立させることと、無関係な他者に対するリアルな距離感を保つこと」が求められ、非常に難しかっただろう。
出会った時点での遠い心理的距離感は、マリトッツォを持ってくるという約束の地点でピークに近づいてはずだ。この変化を意識的に描くことをめざしてもらいたい。立ち位置、言葉遣い、表情、あらゆる要素を駆使して、苦心して描かれたい。
まったく知らない人と出会い、交流し、仲を深めていく。一筋縄ではないものである。
後半、秋音の双子の姉が現れ、秋音の事故死を思わせる発言をする。
台本上では名前がなく、同様に「秋音」と書かれてセリフを発しており、劇中でこの「双子の姉」の名が明らかになることはない。ここはぜひとも名を設定し、その名を台本上に記載し、どこかで名を呼んでいただきたい。
というのも、この双子の姉は、「秋音が死んだかもしれないと音井を不安にさせるための装置」にしかなっていない。それ自体が直ちに問題であるということではないが、そうすると観客がすぐに「単なるミスリードだろう」と気づいてしまうし、役者自身も愛を持ってキャラ造形に挑むことが少し難しくなってしまう。
実際、この双子の演じ分けについては物足りなさを感じた。
駅で出会い、たびたび話す程度の関係性の人物が、事故でなくなったかもしれない。
この事実に対する音井の演技は、非常にリアルなバランスになっていたと思う。当然、心が揺れないはずはないし、とはいえ泣き崩れるほどショックを受けるかというと、たしかに微妙なところだ。信じられないし、信じようがないというところもある。
しかしリアルだったが故に、フィクションとしての楽しさ、エンターテイメントとしての振れ幅は控えめにはなってしまった。ここもエンタメのセオリーとしては、「泣き崩れてしまうほどの濃密な関係性を構築しておく」べきなのだろう。
反対に、「こういう関係性の人を、このように失うと、心はこの程度に動く」ということを示すのならば、作為的な演出として意識してそれを盛り込むべきだった。個人的には、ある種のリアルさをまとったのは結果論に過ぎず、意図したものではないと予想している。
秋音が生きていたことがわかる場面も、「感動の再会!」と大盛り上がりを見せることはなく、穏やかな範囲に留まる。これも個人的には好印象ではあるのだが、わかりやすく濃い味付けを求めてしまうところも事実だ。
たとえば松葉杖をついて出てくるとか、「まだ退院できる時期ではないが、音井の不安を払しょくするために這って出てきた」とか、せっかくの演劇なのだから、力強いパワーを目撃したいところである。秋音のキャラ造形も、それができるつくりになっていたし。
一人の他者と向き合い、心を開いていく。その過程を描く難しさは、コメディにしても同様だ。現実社会でもなかなか難しいことなのだから、フィクションだって一筋縄ではいかない。脚本・演出・演技、すべての点において、この困難さと改めて向き合うことができれば、この作品はもっともっと豊かなものになり得るだろう。
以上。
栗東高校「飛翔」
脚本家をめざす男の子が、女優をめざす友人に勇気をもらい、夢に向かって羽ばたく物語。
思うように描けない苦しみに追い詰められる様や、「この脚本にはあなた自身の姿がない」といった厳しい指摘は、個人的にも身につまされた。
「観客が目撃するこの『飛翔』という演劇作品が、劇中の主人公が立ち直って描いた作品そのものである」という仕掛けは巧みで、気持ちよく拍手を送った。
が、一方でこの構造であるがゆえに、「だとしたらこれはまだあなたの自伝的・個人的な報告にとどまっており、多くの観客を熱狂させる、それこそ夢へと駆り立てるようなレベルには届いていない。この歴史、人生の歩みを踏まえたうえで、あなた(小原椿)が書くべき物語を描きなさい。これではただの自伝ですよ」という厳しい指摘も可能になってしまった。
おそらく僕が劇団水仙の主宰ならこのように言う。
「うん、じゃあこれをもっとフィクションとして昇華させましょうよ。描きたいのは挫折からの飛翔ですよね。じゃあ主人公はもっともっと追い詰められた方がいいと思います。誰が見たってもう飛翔できない、むしろこんなになってまで飛び立つ必要があるのかと思わせるほどに追い詰めて、それでも!と上を向くような展開にしましょう。あと脚本を読んでいるのを待つシーンは退屈です。ここは原稿を部屋に置いてる状態で、女の子が手に取ったら次のシーンに進んでそこで感想を話すとか、時間の使い方をもっとコントロールしましょう。ええとそれからもう少し場面転換を減らす作りにできませんか。もちろん演出も考えますけど、シーン同士の連結をもうちょっと本でも整理してもらえると。あと、ここちょっと打ち合わせしたいんですけど、脚本家の原点との再会によって火を灯すのか、紗衣の奮闘に触れて火を灯すのかは、軸がぶれるので1つにしたいんです。1時間しかないですし。で、どこぞの知らん本を原点にするよりは、小学生時代に紗衣にちょっとしたセリフを読んでもらった過去があって、”そうだ、俺は紗衣に。紗衣が輝くような物語をつくりたくて、脚本家をめざしたんだ”みたいな感じにするとかどうですかね。いや、これ以上恋愛的な色を帯びるのは意図的に避けてるとは思うので、ご相談だと思うんですけど。それじゃちょっと一回プロットに巻き戻した状態で、来週とかお時間いかがですか?」
と。(これは僕がこの『飛翔』について実際に感じている評価である)
つまり、「今ここで見た演劇作品は、小原椿の全力を注がれて書かれたものである」という設定によって、「フィクション世界とリアル世界の、芸術作品の評価の乖離」が発動してしまうのだ。
音楽や漫画を例にするとわかりやすい。映画『20世紀少年』では人類すべてを熱狂させる音楽・スーダラを実際に視聴者も耳にするが、その音楽単体で感涙するかどうかは微妙なところだ。(もちろん、ストーリー込みでエモーショナルではある)
あるいは『バクマン。』に出てくる漫画も、劇中では「評価を受けた人気漫画」として取り扱われているも、その全編がもし劇中で読めたとしたら、「……これって実際にジャンプに載ってたとして、そんなに人気が出るかしら?」という疑問を誘発してしまう。
このように、この『飛翔』について「へー、この世界でこの作品は、少なくとも老舗の劇団に上演してもらえるほど評価を受けてるんだぁ。……実際にそのレベルかなぁ」と比較されてしまう。「そのレベルに達してる・達してない」はどうでもよく、「少なくとも作者がそのように自己評価をしている」というメッセージがノイズになってしまうのである。
さて、演技面においては、「わりと伏し目がちで、互いに相手の目を見ない」というのが大きく気になった。特に椿と紗衣の会話で顕著で、「自分の心の状態の表出させること」に演技の方向性が向きすぎて、相手の挙動をピックアップする・アンテナを張るという意識に欠けていたように思う。
演出面においても、老舗の劇団の上演作なら、もっともっと飛び立つイメージを舞台上に立ち上げていただきたかった。たとえば翼が生えるのはやりすぎだとして、言葉の掛け合いがどんどんスピード感を増していくとか、役者の動きがダイナミックになっていくとか、やりようはあるはずだ。
紗衣の稽古シーンで鏡を設置するというアイデアは非常に良かった。もう少し活かした演出方法もあったとは思うが、鏡の中の役者の顔を注視する心地よさがあった。
飛び立つためには、翼が必要である。
そして飛び立つためには、「原点」という拠点、帰ってくる場所がある安心感も重要かもしれない。どれだけ高く、どれだけ遠くに行ったって、帰ってくる場所がここにある。
それこそが小原椿にとってこの『飛翔』という作品だと思う。
作家も、役者も、もっとダイナミックに飛翔していい。
そんな安心感を胸に、これからに挑んでいただきたいと願う。
以上。
甲西高校「声が聞こえる」
演劇部員たちが銀河鉄道の夜をモチーフにした演劇作品の上演に向けて奮闘する物語。
印象としては「演劇の作法を知りし者」がつくっていると感じた。
バチッと絵を決めたオープニングから、テンポのいい掛け合い、そして何より「演技とはセリフを言うことだけではなく、聞くこと・反応すること、つまり舞台上で行われるあらゆる挙動を”演技”と呼ぶ」ということを一同が理解していた。
セリフを話しながら転換するというような工夫もあり、「観客が目撃するすべての時間が”作品”である」ということも理解されていた。
高校演劇を見ると、この作法が行き届いているだけでいつも嬉しく思う。
特に主人公と呼べるジュンの演技は肝が据わったもので、安心して見られた。なんならあまりにどっしりとしていて、「そのうち終わるこの青春の日々を、すでに終わった地点から振り返り、目の前の部員らを懐かしみ慈しんでいる」という演技に見えた。おそらく意図されたものだと思う。
さて、物語においては、肝心のジュンの記憶喪失があまり機能しておらず、「記憶喪失によって起こるトラブル」も大してなければ、「記憶を取り戻すカタルシス」もイマイチない。
もちろん、年老いた後に思い出すその様は最高にエモーショナルだ。しかしこの、長い年月を経ての記憶喪失と、「実際に取り組んでいるさなかの短期的な記憶喪失」は少し位相が異なる問題だと思う。催眠術によって失われた記憶は、何がどうなったのかをあまり汲み取れなかった。どこかで取り戻していたのだろうか?
そして、「記憶喪失になっても絶対に忘れない」という表現が、ごく単純に日本語として納得できないという問題も感じた。「記憶喪失」とは「忘れる」ことだ。つまりこれは「忘れても、忘れない」という表現であり、その言葉にはたしかな力強さがあるが、逆に言うと力強さしかない。「負けないったら負けない!」とか、「涙が出ても、絶対に泣かない!」とか、そういう言葉としての強さを作家は選んだということだろう。
が、劇中でも実際に「忘れている」わけである。それではがっかりだ。
ここで描かれているのは、「記憶喪失になっても、絶対に思い出す」ではないだろうか。「何度忘れたって、何度失ったって、私は何度でも思い出す。あの音楽が、みんなの声が、私の記憶をよみがえらせる」というのが、本作のテーマなのではないかと思う。
大会に挑むにあたっての大きな問題は、「既成作品ではなく、オリジナルを創作・上演したい」という想いを抱えた後輩部員たちの存在だ。
非常に面白いお膳立てだと思うが、これもどのように消化・解決がなされたのかをいまいち汲み取れなかった。論理的なやり取りはあったように思うが、……この葛藤をしっかりと描く上でも、この催眠術による記憶喪失は邪魔になっていると感じる。
また、『銀河鉄道の夜』という強制エモエモ装置についても、どうしても差し引いて評価せざるを得ない。いや、わざわざ差し引くというと語弊があるが、『銀河鉄道の夜』は本当に暴力的なエモエモ装置なのだ。ジョバンニとカンパネルラの存在は、もはやどんな文脈、どんな展開で引用しても、観客を感動させる魔力を持ってしまっている。
本当にやっかいな作品だ。音楽でいえばカノンみたいなものか。
とはいえ引用するならば、『銀河鉄道の夜』を超えた、あるいは踏まえた上のエモーショナルを生み出さなければならない。それがあるかどうか、という極めて高いハードルを設けてしまうことになるので、それを「差し引く」と表現している。
(『銀河鉄道の夜』には敵わないとしまして…ということだ)
上演は稽古量がうかがえるクオリティで、大変好感を持った。
たいがいストーリーにケチをつけるような論評をするのは、それ以外にネガティブなところがあまりないときなのである。
「忘れない」ことではなく、「思い出せる」こと。
今後の人生においても、そこに価値を見出したほうが生きやすいのではないだろうか。絶対に忘れないなんて、ちょっと大変だ。
忘れたっていい。いつだって思い出せるのだから。
以上。
草津高校「人生の通過点」
妻の復活を目論む博士が、社会にゾンビを生み、娘をも利用するも、立ち向かわれ敗北する物語。
タイトルが「人生の通過点」なのだが、あんまりこんなところを通過する人生はないと思う。なぜこれが「人生の通過点」と冠されているのだろうか。親の支配から逃れる、という視点で見れば、たしかに通過しうるものだが。
選曲のセンスが良かったと思う。世界観を示しつつ、そこまで重くしない。ちょうどいい塩梅の曲選びになっていた。
役者は総じて好演で、みんなキャッチーなキャラクターだった。いきいきと楽しそうに演じられていて、とても好感を持てた。
しかし暗転が連続する作品の構成は非常に苦しかった。「観客が目撃するすべての時間が”作品”である」。単純に待ち時間が多く、そして何より、待った甲斐に乏しいことが問題だ。
たとえば14Pから15Pのシーン、博士と助手の「これでいいんですね」という程度のやり取りのために、前後に1分ほどの転換がなされる。観客としては「えっ、そんだけのためにモノを全部移動させて、また戻して……。ええ~。」という印象を持ってしまう。
さて、こういった作品では、リアリティこそが大事だ。
リアルである必要はない。本当だと信じさせるようなリアリティをいかに持たせるかの工夫がもっと見られると良かった。
たとえばそれはゾンビに相対したときの悲鳴一つで表現できる。どれだけ「リアリティのある絶叫」をするかで、ゾンビのゾンビ性が決まる。今回は、フィクショナルな存在として感じられ、実感を持って没入することができなかった。
また、実際にゾンビがいて、チップによって逃げられないとして、「身体が再生するんだから、チップが壊れるまで身体を壊せばいい」という発想は、非常にグッドだ。私がゾンビになってしまったら、実際にそうすると思う。痛みを感じるかどうか知らないが、少なくとも「やってみようとしたけど、痛くてできなかった」という回答にはなると思う。
ここを安易に「そんなことできるかー!」と言ってしまうと、「大して逃げたいと思っていないんだな」というリアリティラインになってしまう。そうではないほうが面白いはずだ。
博士に対する助手の怯えはとても良かった。このように、博士の狂気は、助手の恐怖によってリアリティが保たれるのである。
捕虜・娘がゾンビ化する演技はとてもリアリティがあった。
ここは単純に、ゾンビっぽい声の出し方・体の動きがとてもうまいのだと思う。
博士は狂気の人物なのでさておきとして、ゾンビの心も、娘の心も、助手の心も、一様に「ライト」だったのが残念だったと思う。
強い悲しみと恐怖があるはずの物語設定なので、「コメディだから」ということで軽やかにせず、もっと重く演じても良い箇所が散見された。重くというのは、「本当にその状況だったときの人間の心のあり様を、きちんと探求する」ということである。
実はそのほうが笑える、ということを知って欲しいと思う。
以上。
近江兄弟社高校「My dream」
家庭の事情で学校生活をうまく送れない少女・美姫を、天真爛漫な四ツ葉という主人公が救おう・支えようと奮闘する話……なのだが。
ここはまず、ストーリーのねじれが非常に気になったので、先に述べる。
美姫が抱える個人的な問題を、四ツ葉が社会課題にすり替える手つきに違和感を覚えた。四ツ葉は言う。「美姫ちゃんみたいな、こんな悲しいことが起こらないように、世の中、変えていきたいって!」。そしてMy dreamという歌を歌うのだが、……それは美姫からすればずいぶんとズレた熱意ではないだろうか。
美姫は、美姫自身の人生に救いを求めている。彼女は今、彼女自身が追い詰められていることに苦しんでいて、観客はもちろんそんな彼女を救いたいと思うようになる。ここまでは四ツ葉と同じだ。そして、四ツ葉は無力感を覚える。お金を渡せるわけでもない。学校を説得できるわけでもない。自分にできることなど、たしかに一つもない……。
絶望的な状況に泣き叫ぶ四ツ葉の姿には、胸が痛んだ。
そして彼女は、「同様の社会課題を解決するために頑張る!」というエネルギーを得て、再び立ち上がる。
……立ち上がるのだが、それは、もはや美姫の問題の解決ではない。美姫自身に「私と同じような人を救いたい」などという想いはなく、自分自身で精いっぱいのはずだ。そして、我々が救いたかったのは、まずはそんな彼女、目の前のたった一人だったはずだ。社会課題を解決することと、美姫を救うことはイコールではない。せめて、美姫を救うという結果を経たうえで、「同様の社会課題の解決」に向き合ってほしい。
驚くことに、美姫は美姫自身の力で、「先生と相談してなんとか学校を辞めずに頑張る方法を模索する」というところまで辿り着いてしまう。ここに四ツ葉の尽力はない。(エールこそあるが)。せめて、聞く耳を持たない先生を捕まえるとか、先生に対して経済状況のデータを提出するとか、「今目の前の美姫を救うための動き」をして欲しかった。
そもそも美姫が忙しいために手つかずだったが課題を、四ツ葉が代わりにやると申し出るのも、物語のずいぶんと終盤である。こんなもんはもっと早くに手伝ってほしい。このように、本来は観客からもっとも好意的に受け入れられるはずの主人公・四ツ葉の言動に、「……それって今、誰のために、何をしてるの?」という疑問が付きまとってしまうのだ。
とはいえ、「美姫を救えない無力感」が作品の葛藤の中心だ。
救えないことが前提で描かれているのだろう。よって、もっと「できそうなこと」をつぶすべきだったと思う。「とりあえず課題を手伝えば?」とか、「とりあえず先生に相談してみたら?」とか、何かしらできそうなことがあるのに、それに取り組まないまま、背中越しに「かけたくても声を掛けられない…!」という描写をしたところで、「うんまあでもとりあえずできることからやっていこうや」と思ってしまうのである。
また、演技面に関しても似た課題を感じた。
四ツ葉の演技のベクトルが、常に「自分」に向いているように見えた。
冒頭で美姫に対して、彼女の不安げで消極的な素振りを一切気にかけず、「かわいい~!」と迫りくる性格には、個人的にやや嫌悪感を覚えてしまうほど。とはいえそれは単なる個人的な好みだとして、この四ツ葉という人物が「天真爛漫で人懐っこい」と評価されるか、「傍若無人で無神経」と評価されるかは、非常に繊細で危ういバランスになっているのは事実だ。
古い例でいえば、涼宮ハルヒとか、惣流・アスカ・ラングレーとか。
もちろん四ツ葉が傍若無人で無神経な人物などではないことは、物語を見ていればわかる。友人のためを想って涙することができる良い子だ。
しかしここで前述の「そもそも美姫を救うためのベクトルと異なる熱量を持っている」という事実と、演技の問題として、「美姫にフォーカスを当てるような演技をしているか?」という点の合わせ技一本で、なかなか好感を持ちにくいキャラクターになっていると感じた。
端的に言えば、背を向ける美姫に対して手を伸ばそうとするシーン。辛さと葛藤する心のうちはとても見て取れる、いい演技になってはいる。しかし、美姫にフォーカスが、スポットライトが一切当たらないように見えてしまうのだ。
「手を伸ばそうとする私」の物語に見えてしまう。いや、事実そうなのかもしれない。
さて、あまりに批判的な内容が続いたので以下は良かった点をあげる。
まずは弘太朗を筆頭とした、男子キャラクターの佇まいに、下心がなくて良かった。もちろん緊張はあっただろうが、「良く見られよう、背伸びをしよう」といったよこしまな考えが一切うかがえず、堂々と舞台に立っていたと思う。その代表格が弘太朗で、「なんて自然に現れ、自然にセリフを吐き、自然に去っていく男なんだ」とくすりと笑った。
四ツ葉の歌声はとても胸にしみた。
また、彩姫の出番は少ないながらも、その立場上の苦しみが伝わる好演だった。「呼吸の仕方」に確かな演技の才能を感じた。
以上。
幸福の科学学園関西高校「味わい」
一族を見守る精霊・ピーターとの交流を経て、母への本音を口にすることで前を向くことができた晴香の物語。
感情をタネにしてパンをつくるというアイデア。喜びや怒りなどさまざまな感情が酵母のように機能し、「ふくらむ」と共通項でファンタジーをつくったのは素敵だと感じた。また、ほんの少しの「苦しみ」も入れると、きっとおいしいパンになるという結論に至るのもなかなかにグッとくる。児童劇のようなルックスだが、ヤングケアラー問題を背景にしていることもあり、わりとビターで大人な物語だ。『味わい』というタイトルも、見終わった後に再び噛みしめれるいいタイトルだと感じた。
その「児童劇のようなルックス」を支えていた小道具各種に魅力を感じた。手作り感満載だが、逆に温かみがあってよい。それでいてしっかりと工夫があり、特にパン生地のムッチリ感は思わず一緒にこねこねしたくなる見た目だった。
1カ月学校に行くことができていない晴香。母に代わって家事をしなければならないことが原因なのだが、肝心の母の状況があまり伝わってこない。「実際の家庭状況がどのようなものであるか」の描写があまりに少なく、母から愛されている・愛されていないの判断も難しい。そのため、晴香が胸の内に秘めた苦悩もどの程度のものかは、「ビンに詰められた苦しみ」という抽象的なものでしか観客は捉えられないし、そもそもなぜそんなに苦しめられているかもよくわからない。
「誰にも愛されない感じがする」という彼女の悩みは非常に切実だ。助けを求める晴香は、ピーターの支えもあって、ついに母に「生きている意味が分からない。どうしてこんなに寂しいのかもわからない。お母さんを大切にしなきゃいけないのに、私のそばにいて欲しいと思ってしまう」という苦しみをついに吐露する。
が、それが彼女の苦しみの正体なのだろうか。……いまいち実感を持てなかった。
彼女はもはや、「母を憎んでしまっている」のではないだろうか。そして、「母を憎んでしまっている自分」がたまらなく嫌いなのではないだろうか。もちろん、愛憎は表裏一体で、単に憎んでいるという話ではない。愛しているからこそ、だ。
この事実を作家も、演出も、役者も、直視することを避けたような印象が残った。
「幸せに自分から向き合う」「生まれた感情は必ず誰かが受け止めなきゃいけない」「愛を味わう」。こうした抽象的な表現について、もっと具体的な内容まで迫ることができれば、よりよい作品になったと思う。つまりそれはどういうことなのか、実際に何をすることなのか、ということだ。
一例だが、鬼田先生という頭のおかしい教師が、不登校生徒に対してあまりにふさわしくない言動を行う。この「攻撃」に対して、晴香はどのように振る舞うことが正解なのだろうか。求められたのは、「うるせ~、ハゲじじい!」と言い返す胆力か、「困ったことがあるんです」ときちんと事情を共有する判断力か、教育委員会に訴えるという社会力か。
晴香を具体的に救うためには、そういった「具体的な案」が示されたい。
とはいえ、落ち込むこと・苦しむことはある、というのがこの劇の主題であるから、上記のように「解決」することがすべてではない。苦しんだという事実を誰かに話すことが大事だ、というメッセージがあるとも思う。ならば晴香は、母に鬼田の件を話すべきだろう。こういう相談事を母にしがたい、という課題があったわけだし。
あと、これは非常に些末なことだが、ピーターが一族を見守ることを「仕事」と呼んでいることがけっこう寂しかった。できれば「仕事」というよりは、「使命」とか「役割」とか「務め」とか、そういった呼び方で自身の存在理由を語って欲しいと感じた。
また、ビンを見せて「これは晴香が作り出した苦しみなんだ」と驚かせるシーンがある。そのあとに、「厳密に言うと、小鳥遊家が作り出したって言ったほうが正しいかな」と言い直す。ぜひ最初から厳密に言って欲しい。全部が全部、晴香が原因であるかのように言わないでもらいたい。おいピーター言葉には気をつけろよ?と、すっかり晴香に感情移入をして睨みつけてしまった。
キングダムハーツというゲームが、「光と闇」という抽象論の深みにはまっていき、難解を超えてもはや意味不明な物語となっている。あれはあれで面白いのだが、一人の劇作家の志向としては、事態を抽象化するよりも、具体化を突き詰めること、「その正体が一体何なのか」というところに限りなくフォーカスしていく試みをしていきたいと思っている。
この『味わい』という作品も、もっと「具体」と向き合うことが可能な作品だと感じた。繰り返すが、台本のみの話ではない。役者も、「ピーターはあの世界で、“具体的に何をしている人なのか”」、「母は、“具体的にどういう状況なのか”」、そういったことを追い求めていく姿勢こそが、肝要である。
以上。
彦根翔西館高校「青い太陽」
謎の部活動にタイムスリップしてきた男との交流を通じて、部員らが当たり前の幸せの大切さを再認識する話。
まずは雑多な雰囲気のある部室の表現がナイス。写真を撮りたいくらいだった。幕開けの音照各スタッフの連携もうまくとれていて、ストレスのない観劇ができそうだと楽しみに構えることができた。
さて、なんだかよくわからない部活動なのだが、本当によくわからなかった。活動の内容はどうでもいい。設立の経緯も説明されている。わからないのは、「それで、なぜこの人たちは、ここにいるのだろうか」という理由だ。
仲良しこよしという感じでもない。それでいて佐空が帰ってもいいかと尋ねると、ダメと咎められる。「何か活動をしなければ、この部活がなくなる
」ということらしいが、「それの何がダメ」なのかがうまく伝わってこない。
「何らかの部活に必ず入らなければならない学校だから、この部活がなくなればどこか既存の部活に入る必要があるも、どこにも入りたくない人たち」なので、「ここを維持したい」という想いは合致しているのだろう。
そのこと自体は考えれば理解できるのだが、もう少し頭を使わずに観劇したい。
たとえば生徒会長が現れて、「このままだと廃部にする」と宣言するとか、「そういわれた」と誰かが報告して一同が慌てふためくとか、わかりやすい展開を用意してあげるべきだろう。あるいは彼らが日常に甘んじている自堕落な人物であるという描写を徹底するか、どちらかだ。(誰も部活をやろうとしない)
そこにタイムスリップしてきた佐助という男が現れ、彼らは交流を通じて、「戦闘はゲームではなく実際に行われていた時代がある」「飽食の時代は当たり前ではない」といった気付きを得ていく。この気付きによって、彼らは学校のありがたみ、部活のありがたみを理解することになるのだが…。
美鈴「じゃあ部活ができることに感謝して、部活再開しよっか!」と動き出すも、実際に何をするのかはやっぱりよくわからない。どんな灯がともり、どんな行動が始まるのかが伝わってこないため、彼らの成長を今一つ実感できなかった。
物語の終盤で、佐助は過去ではなく遠い未来から来た人物であることが明らかになる。この仕掛けは実にうまくいっていたと思う。私は事前に台本を拝読していたが、後ろの席に座っていた生徒はすっかり騙されて、「未来から来てたってコト…!?」とちいかわみたいな声を出していた。思わず微笑んでしまった。
佐助は2380年から来た人物で、彼らが部活動をしていた時代は、「第三次世界大戦が起こる30年前の地点」だった。もしかしたらその戦争の未来は変わるかもしれないと、佐助が希望のセリフを口にして物語は幕を閉じる。
が、……かなりその未来は避けられなさそうなのが気になった。
あの部活動の面々が、そんな、第三次世界大戦になるような世界情勢をひっくり返すほどの、熱意や知識を身につけることができるのだろうか…。そこまでの気づきを得ることができていただろうか。
だとしたら彼らの気づきは、「この幸せって当たり前じゃないんだね」という程度のモノではなく、「本当に、本当に本当に限定的な幸せで、かつ非常に脆弱で、全員で真剣に守らなければ、途端に壊れてしまう幸せなのだ。マジのマジのマジで」というレベルに届いてほしい。今すぐに教室を飛び出して、誰か大人を味方につけるような動きをして欲しい。
そうじゃないと戦争なんか避けられないだろ、と思ってしまった。
佐助の演技は実に実直で好感を持てた。途中で煉獄さんみたいと揶揄するような展開があったが、まさにそんな感じ。端的に「いい奴」だと感じた。
ところで、このタイムスリップが「彼が意図的に行ったもの」なのか、「偶発的に起こったこと」なのか、微妙に劇中でズレが起こっているような気がした。
タイムスリップ自体は偶発的なものだとして、佐助が天に願うことによって起こるとか、ある程度意図したものであるという作りにしておいた方が、「彼の使命感」を示せてよかったかもしれない。
また、劇全体を通じて「ゆるさ」を感じた。これは単に推測だが、「いつでもだれでも止めることができる稽古」を行ってはいないだろうか。「ごめん間違えた!」とすぐに止めてしまうような稽古を繰り返していて、ノンストップで走らなければならない緊張感に慣れていないような気がした。会話のテンポも、洗練されていたとは言い難いものだった。
それは逆に彼らの仲の良さや、部活動の空気感を表すことにもたしかに寄与してはいたが、全体としては「損」だったと思う。
以上。
高島高校「ただいまと、愛してるを君に」
戦時下、特攻隊に選ばれてしまった男と、女学生の恋物語。
まず、題材とストーリーに心を揺さぶられた。
恋人が戦争によって命を落とすのは、本当に悲しい。わりと感情移入しすぎてしまい、ラストのハルの、「洋平の死の受容ステップ」があまりに駆け足だったので置いて行かれてしまった。彼女は「おかえりなさい、洋平さん!」と前を向くのだが、僕はまだ「……洋平ぇ…」と悲しみに暮れていた。なんなら今でも暮れている。
照明効果はメリハリがきいていて、パワフルだった。
戦時下を示す看板も、衣装も、それらしくていい。
さて、気になったのは演技の「動き」だ。
セリフの一つひとつ丁寧に、身振り手振りや移動があるのだが、それが役者に今一つ腹落ちしていないように見えた。端的に、「段取り的」だった。
なぜここで両手を広げるのか、なぜここで指を立てるのかといった動きの一つひとつが、どうも生きていない。やらされている感がある。
これはセリフのイントネーション、強弱についても同様だった。
推測だが、「このように演技をして欲しい」というオーダーは十分に為されていると思う。そして役者もそれを実現しようと奮闘している。が、「キャラクターの生きた挙動」にまでは届いていない。どうにもこうにも、「演技」なのだ。
緊張があったのかもしれない。しかし、「演技とはこういうものである」という先入観があるせいかもしれない。こうした「段取り」を最もうまくこなせていたのは佐伯洋平だと思うが、彼ですらある種のマシーンとして究極系という方向性だったように感じる。
とはいえ、彼らに課された動き自体はまったく悪くない。やはり演技とは、どれだけその段取りを落とし込むか、「今、この瞬間、そう動きたくてそう動いているように見えるか」が大切である。
セリフのテンポ感も同様で、もっともっとグルービーに掛け合いをして欲しい。
「練習の成果」としては上々だったかと思うが、「今この瞬間に生まれた会話」にはまったく見えなかった。
もっともっと相手の言葉を聞くことが大切だ。戦地に行くという洋平の言葉には、もっとふさわしい反応がハルにもあったかと思う。
転換が無音で行われることが大きく気になった。何か工夫が欲しいところである。
シーンの割り方ももう少し整理整頓したほうが良い。「2分見て、転換して、2分見て、転換して」という繰り返しには、観客は疲弊してしまう。
台本に関して。
できれば洋平とハル、恵流と珠杏の恋模様は、対になるつくりにしたほうがよい。「似たような恋愛」が並んでしまっているので、例えば一方は男から女への熱烈な愛にして、一方はその逆にするとか。一方は戦争に行くことになるが、一方は行かないことになるとか。物語的な人物配置をもっとテクニカルに考えても良いだろう。
もちろん、最後の「片方は男が生き残り、片方は女が生き残る」という極上の対は素晴らしかった。そこに至るまでの過程の面で、どうしても「似たような恋模様」の描写が退屈になってしまうという点の話である。
以上。
水口東高校「ハムレットはん」
3人バージョンのハムレットを上演する、近畿大会優勝をめざす演劇部員たちの物語。
掛け合いのテンポは見事。しっかりと考えられた空間の使い方。奥行きを使う大事。
たしかな演出家の存在を感じるクオリティの演劇だった。「これはどこかの誰かが上演した映像を見て、トレースしているものではないのか?」と邪推するほど。(講評時メモ:もし仮にそうなのだとしたら、「演出と著作権」の話をしておかなければならない。)
(講評後加筆:本を元に立ち上げたオリジナルであることを確認しました。邪推失礼…。)
台本のニュアンスを丁寧に汲み取っており、生きたセリフ・生きた動きとして舞台上に演劇が立ち上がっていた。
特に3人の組み合わせが良くて、「文脈や価値観を共有した3人」としての強さを感じた。このシーンをどういう時間にするのか、ここでどのような印象を観客に与えるべきかなど、きちんと一致させたうえで演技に臨んでいると感じた。
それぞれが自分の見せ方をわかっているし、相手の立て方もわかっている。
特に原作のハムレットをダイジェストで演じる時間(勝手にちいかわハムレットと名付けた)は白眉で、もっと長く見ていたいと思うほどだった。
ここも、「そういうふうに演じる」という共通理念を持てていたと思う。
転換の工夫もなされていた。
また、音源・音響がきちんとしたクオリティであることも評価すべき点だ。本来は特に評価されうるようなものではないのだが、やはり高校演劇においては、「……これどこから拾ってきた音源なの…?」と気になってしまうほどノイズが乗っているものや、「なんでそんなでかい音で流すねん」とツッコんでしまうようなことも少なくない。そういったストレスをなくすこともまた、「演劇の作法」だ。
ハルネが作者名から自分の名を除いてほしいと申し出て去った後に、下手に貼られた「めざせ!近畿大会」の文字が観客の目に映ってくる空間構成など、見事だった。
台本について。
ハルネの葛藤についてやや踏み込みが浅いと感じた。というのも比較されるのがハムレットの苦しみなので、どうしても「くだらない悩み」に見えてしまう。そうではなく本人にとっては生き死にに直結しうる問題なので、その実感を観客も持ちたかった。
これは台本だけではなく、役者の課題としても見られた。三人ともどちらかというと「ドライ」な演技を得意としており、「ウェット」に入ることに躊躇がある・気恥ずかしさがある・踏み込みが浅いという印象があった。とはいえ、それが今回の上演にある種の爽やかさ、軽やかさを大きくもたらしているのも事実だ。
「ウェット」に偏らせないという選択も、結果的には良い方向だったと思う。
しかしより演劇作品としてストロングなものをめざすなら、もっともっと観客のエモーショナルにする演技を、舞台上で繰り広げる方向に進化しなければならない。
それはきっと、今ある良さをすべてぶち壊してしまう方向だとも思う。
ラスト、大会で敗北したハルネが「めざせ!近畿大会」の紙を、くしゃくしゃにするシーンがあった。これは台本上では「くしゃくしゃにしようとするが、できない」というものだ。
表現が難しかったのだろうか。上演では一気にくしゃくしゃにして、その後、丁寧に戻していくという演技がなされていた。
非常にいい選択だったと思う。こういうときに、「くしゃくしゃにしようとしてできない」というト書きを、その心理的な葛藤を、呼吸で肩を揺らすとか、なんとか頑張って表現しようとする方向性も、高校演劇ではよく見られる。
しかし舞台上、派手に行こうぜ、というスタンスが感じられて、気持ちよかった。
以上。
守山高校「ふたりのすずき」
就活に苦しむ鈴木が、演劇部の鈴木との交流を経て前を向く物語。
他校の作品でも同様の想いをしたが、やはりシンメトリーは強制的に美しい。幕開けで観客の心をいかに掴むかを意識的に工夫している作品として好感が持てた。
コメディセンスがなかなかに高く、「お笑いをわかってるやつが仕掛け人としてどこかにいる」と感じた。おそらく作者はお笑いが好きなのだろう。「滋賀県がない琵琶湖」というフレーズは手放しに面白いし、オトが怒鳴り散らした後に淑女ぶるのは、未知やすえ的な様式美だ。「(鈴木は日本でありふれた苗字だ、という指摘に対して)その言い方は全国民の三分の一に喧嘩を売ってる」「そんなにはない」という掛け合いもめちゃくちゃ面白い。
役者のセリフのテンポも、コメディのそれになっていたと感じた。
また、役者が「きちんと止まることができていた」のも評価ポイントだ。ノイズになるふらつきや、特に意味のない演技(物語に寄与しない単なる役者の自己満足の小芝居)は意識的に排除されていたように思う。
オトとショーが現れ、就活生鈴木との交流していく過程も、台本が丁寧だった。関りを作っていく流れに無理がない。他校の作品との比較だが、『乗り遅れた私たち』や『青い太陽』など、「見知らぬ人との交流を深めていく様」にやや無理がある作品があったなか、本作は情報を開示していく段取り、出来事に参加していく流れがうまく作れていた。
途中ショーが「見ず知らずの高校生たちに接する態度とは思えない!」とツッコむが、まさにその不自然さを気にかける態度こそが重要なのだと思う。
さて、「目が死んでいる鈴木」というフリが効きに効いていたため、いざ鈴木が現れたときには少しがっかりしてしまった。肝心の目が前髪であまり見えない。し、そんなに目が死んでいるようには見えなかった。
そして、肝心のこの鈴木と鈴木の自己開示の流れは少し不自然だった。台本上の問題も、演技の問題もあったように思う。
舞台美術で花壇のようなものがあったが、うまく機能していなかったと思う。
まず花壇に見えず、なんなんのかよくわからないし、結局謎のタイミングで花壇のパネルを取って単なる「台」と化してしまう。舞台を構成する要素を減らす・統一するという発想は素晴らしいので、いっそ花壇のままでよかったかもしれない。
本作の主題は「諦めたいけど諦められない苦しみ」にあるように感じた。
「逃げたいのに、逃げられない。捨てたいのに、捨てられない」ということが演劇部鈴木の苦しみなのだから、それに対して「諦めなければ続いていく」という回答は少しずれている。
「諦めても、何度でも立ち上がる」「何度転んでも立ち上がる」ということが最終的なアンサーなので、「諦めなければ」という言葉はつらい。それ自体が苦しみの正体なのだから。
「諦められない」ことが苦しいのである。だから、「諦めていい」のである。大切なのは、「その後立ち上がること」なのである、と。ま、要は「諦めない」という意味ではあるのだが、単なるレトリックと言うよりは、本質的に大切な解釈の仕方だと感じている。
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と、いうことを作者も基本的には理解しており、そのように展開しているのだが、整理整頓の問題だとも思う。
ライバル校の二人が去るシーンは、歩き方に何か工夫が欲しかった。わざわざ音楽までかけるのだから、エンターテイメントしてもよかったのではないだろうか。
「頑張れ鈴木」という言葉が、他者にも自分にもかけられるという構成は非常によかった。
以上。
八幡商業高校「マイアイデンティティ」
性別違和を抱える主人公の、友人女性への失恋物語。
人の「中身」などわからない、という主題があったように思う。ここでいう「中身」とはアイデンティのことで、「アイデンティティ」は人からはうかがい知れぬもので、自分にしかわからないものである、というメッセージもあるように感じた。
ここは役者陣のルックスの説得力が凄まじく、全員が「そういう人」に見えた。ミオに関しては終演後に「性格が本人と真逆なので、演じることに苦労した」と言っていたが、「見た目」の説得力は非常に強かった。むろん、ケイもヒトミも同様である。
ただそれだけに、表情に乏しいことが残念だった。
顔がよく動くのが店長のみで、ほか三名の顔は終始固くこわばりがちだったように思う。たとえばミオも、大好きなアーティストのライブ終わりは、もっともっとはじける笑顔で飛び出してきて欲しい。また、ヒトミもあまり表情を動かさないことによって、必要以上に不信感を帯びた存在に見え、なにか大きな裏がある危険人物ではないかと邪推するほどだった。
P13あたりには、上演中のメモで「ヒトミは何?マモノ?」と残してしまっている。
なにより性自認についてズケズケと立ち入ってくる様は恐怖さえ覚えた。
ケイに関してはそういうキャラクターだと理解できるが、そうはいってももっと表情でお芝居をしたっていいはずだ。
また、ミオの性格も少し気になった。ヒトミを招いた飲み会ですぐに寝たり、その後の対処をケイに任せきりにしたり。正直、一切好感は持てず、なぜケイはこの子を好きになるんだろうかと疑問にも感じた。
ヒトミの目的も終始不明で、正直ケイ以外の登場人物には不信感しかなかった。
店長でさえ、「なんなんだこの仕事をしない大人は」と感じた。
ケイが母と会話するシーンは、空間としてどうなっているのかが曖昧だった。ドア越しに会話をしているのか、玄関とキッチンでの会話なのか、なんだかよくわからない。もちろん演劇的な見せ方としてああいう形はアリなのだが、「単に母の姿を出せない」という上演上の都合が先行しているようにも感じた。なぜああするのか、ということについて、演出上の意図を持たせたい。
たとえばケイが客席を向き、少し上を見上げるようにして母と会話するなどすれば、母から受けている圧迫感を表現するができる。
ケイがミオに告白するシーンも、ミオの言動はあまりにも配慮に欠けていたと感じた。配慮の行き届いた言動であるべきだ、ということではない。ケイというキャラクターは、ミオのこの配慮に欠けた言動・性格を、きちんと受け止めなければならない。
現状では、単に恋に盲目になっている、すべてを許す甘い仏になってしまっている。
ケイを取り巻く大人たちはどうもおかしな人が多いので、ケイはそのことに気づき、何か自分なりの向き合い方を見つけて欲しいと思う。
この物語のピークはどこなのか。
役者がこの時間の流れを過ごすうえで、どこでどんなエモーションがピークを迎えるのか。
そこに演出家の指揮がもっと入るべきだと感じた。
以上。
彦根東高校「君とつむぐ物語」
演劇部が手話を用いた作品作りをするストーリーなのだが、どういうドラマがあったのかを掴みあぐねた。
作品づくりを通して結束が高まる、というものだろうか。この時間の流れのなかで、何がどう変化した物語だったのかをはっきり捉えられなかったのは残念だった。
とはいえ、演技は好演。舞台美術のそれらしさ(部室感)はとても良かった。また、秋華のタレント性は目を見張るものがあった。自分の見せ方を知っている人間の演技だった。
幕開け、良秀の大暴れから始まるのだが、キラキラのモールをつけて稽古をしたことはあったのだろうか。うまく扱えていない様子がギャグだったのかもしれないが、「これ初めてつけて本番を迎えてるわけじゃないよね?」というノイズになってしまった。
「ノイズ」という観点は、本作の評価において結構減点されている。役者の演技でも、あまり有効ではない反応、単に観客の目が散るだけの動きが散見された。その瞬間、どこにフォーカスを当てるべきかという意識を持ってもらいたい。
「常に自分が見られていると思って演技を続ける」ということは大事だが、それは「常に自分が観客の注目を集めるべき主役である」という意味ではないはずである。
しかし全員腹から声は出ていて、基礎力の高さは感じさせた。意識の問題である。
「ドラマを掴みあぐねた」と書いたが、手話劇をやる意義について議論はとても豊かで面白かった。役者の演技も乗っていた。ただこの「手話劇をやるかどうか」がドラマの根幹ということでもない。
辿り着くのは「100人いれば100通りの普通がある」「100人の求めるお芝居はそれぞれ違う。一人ひとりの想いを紡いだお芝居をやってみたい」というところだが、ここに辿り着くためには、ドラマのセオリーとしては「たった一つの正解がある」という前提からスタートし、「正解に辿り着くも、何かがダメ」という壁にぶつかり、「正解は一つではなかった」という気付きを得る、という流れであるべきだ。
たとえば手話劇を、明確に「審査員ウケをめざして行う」というスタンスで実行するも、それがうまくいかず…というような展開にしたほうが、「ドラマ」が成立する。
「何にぶつかり、どう成長したのか」を(成長しなくても良いが)明確にしたいところだ。
バッシとその他部員の不和も、不和があるのかないのかも微妙に不明瞭だ。
彼との仲たがい、そして仲直りに至る変化も「ドラマ」と呼べるほどの流れがなく、言ってしまえば「じゃれ合い」にとどまっていたと感じる。
手話パフォーマンスパートは楽しく見た。
それ単体をコンテンツとして評価するなら、上々といったところである。
以上。
石山高校「悩める青春(ハル)とレモンスカッシュ」
カフェで出会った学生らが、悩みを分かち合い友情を確立し、人生を肯定的に捉える物語。
場面転換は最初と最後のみ。ほぼワンシチュエーションで駆け抜ける構成は見事。集中して最後まで見ることができた。
とはいえ、緩急のなさは課題。4人の会話はほぼ一定の速度、一定の音量で続いていく。もっと矢継ぎ早に掛け合いが行われる瞬間や、強烈な沈黙など、音としてのリズムを意識したいし、また会話のテーマにも強弱を意識したいところである。
本作も、『乗り遅れた私たち』『青い太陽』と同様に、「見知らぬ人との交流を深めていく様」にやや無理がある作品だった。カフェで同席し、1時間。ここまで自己開示して分かり合うためには、何か仕掛けが必要だ。たとえば外が嵐で帰れないとか、友達づくりがコンセプトのカフェであるとか、「そうせざるを得ない条件」を設けるのも一手だろう。
実際、本イベントではさまざまな背景を持つ同年代の仲間たちが集まっているわけだが、そうそうこの作品のような出会いと分かり合いが量産されることはないだろう。もちろん、この4日間で親友と呼べる相手を見つけ、友情を育んだ人もいるかもしれない。その過程には、きっとなんらかの必然があったはずである。きっかけがあり、自己開示に至るまでの流れがあると思うので、作家も役者もその注視を試みるといいだろう。
それぞれのキャラクターは好演だったと思う。
とはいえ、もっとも印象に残ったのはギャルだった。イントネーション、爪を見る仕草など、まごうことなきギャルだった。彼女のようなインパクトを与える存在が、4人のなかに居て欲しかった。
冒頭、カフェに集まってくる時間がなかなかに退屈だったり、最後の場面転換には何か音楽が欲しかったり、「観客が過ごす時間をしっかりと楽しませる」という意識をもう一段強く持つと、この作品はより面白くなるはずだ。
劇中、フルートが披露されるが、できればギャグではなく本格的に吹いてもらいたかった。その期待をあおるようなつくりになっていたと思うので、ギャグにするのならば、タイミングや導入などで、もう少しおまけ的な位置として観客に伝わるように工夫されたい。
「フリ」ということの意識は、オープニングからカフェへの転換においても欠けていたと言える。始まってすぐの転換になるため、できるだけ観客が気になるように場を整えて、カフェに至りたい。
たとえば先生が「なんで先生になろうと思ったかって?それにはとんでもない出来事があてね…」という一言を置いてから転換するだけでも、観客の時間の過ごし方は豊かになる。
今この時間、どんな思い・感情を観客に過ごしてもらうか。
それを設計・構築することが、演劇のミッションである。
以上。
能登川高校「りめいんちゃん」
妹が自身の内的な対話によって、クラスになじめない状況を打破しようと前を向く物語。
非常に心苦しいが、本作は未完成品であると捉えざるを得ない。
1時間の枠の中で、上演時間は20分程度。スタッフワークの連携もうまく取れておらず、役者には終始不安げな様子が見てとれた。
芽愛が涙を流すに至る心の流れはうまく演じられていたと思う。
気持ちが伝わって来た。
おそらく何らかのトラブルもあるのだろう。本作の上演に至るまでの背景を知らぬまま、稽古不足だなんだと指摘するのは、単なる暴力にしかなり得ない。
少なくとも上演されたこと。舞台に立ち続けたことに、拍手を送りたい。
(もし彼女らがこの日この舞台を迎えるにあたって、なんらかの大人のミス・不届きがあったとするならば、非常に許しがたい。一人の演出家として、「なんという精神状態で舞台に立っている役者なんだ。役者を、こんな心持ちで舞台に立たせてはいけない。演出家は何をしているんだ」と上演中は思わず憤ってしまった。ただ、高校演劇では演出家が存在しないこともよくあるし、顧問の関与の程度も不明である。なのでやはり、これ以上は何も言えない)
以上。
長浜北高校「熱闘広辞苑」
手放しに面白かった。
「演劇の作法」はばっちり。反応としての演技もできていた。セリフを誰にあてるべきかが意識されているし、誰かにあてなければセリフというのは機能しないという前提を全員で理解できていたと思う。
声が出すぎてて「や団」を思い出した。そんなにでかくなくていいだろ、と思ってしまうところもあるが、とにかくでかい声はイイコト至上主義に思わず顔がほころぶ。
美術には何かモチーフが欲しい。
ノートの罫線にするとか、甲子園にするとか。コンセプチュアルな造形をすることができれば、よりプロさながらの舞台美術を立ち上げることができただろう。
母との説得の中で、
「この世界にはまだ言葉になっていないことがたくさんある。言葉にならない感情を、想いを、俺たちは探したいんだ。この活動で、俺たちはいつか絶対、言葉にならない瞬間と出会うはずなんだ。母さんも、大人たちはみんな、そんな瞬間と出会ってきたと思う。その瞬間を振り返って、人はその名を呼ぶんだ。青春。思い出。黒歴史。ハングリーデイズ。輝き。煌き。……それが僕にとってはどんな言葉になるかまだわからない。だから探したいんだ。この日々にふさわしい、ニューワードを」
みたいなセリフが出ると、極上の構成だと思う。
……というかそこまでできてしまうと台本としてあまりに完成度が高くなるので、やめて欲しい。そうしていないことも作為的かもしれないと自分を疑ってしまうほどには、作者が頭をひねって書いた台本であるのは間違いない。本当に感服した。
母親が「ありがとうとごめんなさいをちゃんと言えるようになること」と言うが、思わず「お前やろ!!」と思ってしまった。
描写としてはいわゆる毒親のため、なんらかの罰が下るか、あるいは息子が母の支配を明確に脱却しなければ、「なんだか嫌な母親だったけど、ぼんやりと許された」という不快感が残る。
勝手に部活をやめる電話をするというのは、いくらそれが愛情由来からの行動だったとして、許されるようなものではない。あまりに子どもを所有物として認識している。
終演後に作者が「母の造形に悩んだ」とトークしていたが、母自体が「気づき」を得る必要がある。彼女は何を知らなくて、そして何を通じて(おそらくは息子の部活動への励みを通じて)、何に気づいたのか。その描写をすれば、母は「生きた人物」になるだろう。
「にゅわぶ」で締めるのはとてもいいので、どこかでフリが欲しいところ。
「目標に向かって楽しみながら進んでいくことを、何て呼ぶ?」という問いかけが事前にあって、「夢追い人?」とか「松岡修造?」とか、既存の言葉でしっくりこないさまを描いたうえで、オチに向かうと気持ちが良いかもしれない。
あ、どうでもいいことだが、作中でYouTubeをミーチューブ、プリキュアをピュリキュアと、固有名詞を伏せて喋っていたが、「いや広辞苑がそもそもゴリゴリの書籍名(商品名)やろ」と思った。
以上。
長浜北星高校「conflict~苦悩の明かり~」
演劇部の部活動に励みつつ、心中に葛藤や闇を持つ部長と仲間の物語。
会話のゆるさが顕著。かけあいの遅さ、もたつきが気になった。
転換の無作法も、退屈を覚えた。
晴那の苦しみが不透明だったかなと思う。
大きな苦しみを抱えていることはわかる。問題は、その苦しみによって物語が展開していくわけではないということだ。物語はあくまでも、極めて日常的な、演劇部の日々を追いかけるように進んでいく。
だからこその苦しみなのだろうか。それにしては、部員らの様子に心を救われているような描写もある。
一体彼女は何に苦しみ、何に救いを求めているのか。そして何をきっかけにその苦しみがついに発露し、そしてどういった出来事によって変化が起こるのか。ごく単純にその辺のドラマ的・ストーリー的なプロットが組み立っていないという印象だ。
もちろん「友人との交流(会話)を経て」ということはわかる。わかるが、それでは解像度が低い。単純化せよ、ということではない。細分化せよ、ということである。
ここは一つ、劇の内容を飛び越えて話してみたい。
物語・演出・演技、それらすべてが「外にひらけていない」ことが大きな課題だと感じた。
物語には「わかってくれる」という甘えがあるかもしれない。演出には「見ていてもらえる」、演技には「汲み取ってもらえる」というような。
もう少し「怯え」を持つと、より伝わりやすい作品になると思う。
「こんなに長い間喋って、ずっと見ててもらえるかな?」「転換の間にあくびされたりしないかな?」「演技って、これでいいのかな?」と。
観客は確かに「味方」だが、「家族」や「友人」ではないのである。
(他校と比べて文章量が少ないのが申し訳ないが、さすがに16校分書くと、重複してしまうのだとご理解いただきたい)
(特に”演劇の作法”、”稽古の仕方”の点など、これまでに書いた内容を参照していただきたいと思う)
以上。
***
あまりの文章量なので、乱筆は覚悟の上……。
とはいえ1校1校のレビューは大したことない。
16校も見るという前提が狂っているのである。
どう考えてもさすがにやり過ぎだろ。
誰かが冷静になったほうがいい。
16校って、多いだろ。
冷静になってくれ。誰か。
(了)