ノーアイデア、トンポリ、アイデンティティ、刃渡り2億センチ、謝罪、有料部分について
事前にしたためて予約投稿しているから、時事性みたいなものが徐々に乖離していく気がするし、鮮度みたいなものが落ちていく感覚がある。
今日書いたやつは今日投稿したい、みたいな気持ちもあるが、それをやり始めると多分マジで大変。
でもなんか、過去の自分に喋らせてるみたいで、不思議やわ~。
■ノーアイデアについて
なにも思い浮かばない、ということは確かにある。
たとえば今。
何を書こうかと考えてみるが、なにも思い浮かばない。ノーアイデア。
こういうときはとにかく書いてみる、喋ってみる、まずはノーアイデアであることを、まるでアイデアであるかのように取り扱うことが有効だと、30年生きて学んだ。
何にも思い浮かばないときは、「何にも思い浮かばへんわ!」と、まずは叫ぶことから始めたほうがいい。これはあらゆる分野のクリエイターにとって役立つと思う。
作曲家なら、「何にも思い浮かばへんわ!」と叫んで、「な~んに~も~♪ おも~い、うかばへ~んわ~♪」と歌っちゃえば、メロディが生まれる。
作詞家なら、「何にも思い浮かばへんわ!」と叫んで、「まるで真っ白なキャンバス」とか適当なことを言えば、とりあえず詩になる。
絵描きさんなら、大きなバッテンでも書いてみるといい。どくろが見えてくるかも。
僕のような物書きなら、ほら、こうしてとりあえず文字は連ねられている。
YouTuberも、まずはカメラを回しちゃうんだろう。
そうしているうちに、「ナニカ」はできる。
それが良いとか悪いとかはさておき、「ナニカ」を作ることはできる。
たしかに我々は「いいもの」を作りたいし、「いいもの」を作るためのアイデアがないって話をしていたわけだが、良いとか悪いなんて、結局は評価の話だ。
我々の使命は、とりあえず「ナニカ」を作ることだ。
それ以外にない。
生放送気分で、放送事故を防ぐ感覚で、目の前の空白を埋めてしまえ。
■トンポリについて2
前にトーンポリシングについて、「被害者はどんなことを言ってもいいという考え方も自分の中にある。その口調や声量は荒くてもいいし、その対象が加害者に限らず、あちこちにまき散らしてもイイ。だって被害者なんだから」みたいなことを書いた。
この考え方はあんまり変わってない。というか別に根本の思想って言うより、「っていう考え方も、自分の中にあるのはあるんだよね~」程度のものだと理解していただいて。
詳しくは二日前のnoteを読んでいただくとして。
でもこれ、「被害者vs被害者」の構図の場合、どえらいことになるなと思い至った。
その場合はもう、すっごい喧々諤々になっていくばかりで、えげつないことになるよな。
とはいえ、それを諫めること、その「トーン」を自分の望むカタチにポリシングしようとすること自体は、よくないことだよね、って考えは変わらなかった。
正直前に書いたトンポリについてとかは、「演劇・映画・芸能界のセクハラ・パワハラをなくす会」の周辺で巻き起こっているアレコレから連想して考えたことです。
(ここで特定の団体名とか、個人名を出すのは躊躇があったんですけど、さすがに何の話かわかんないので、便宜上なくす会周辺と書きました)
(でも、「なくす会」は別に関係ない話、とも言えます)
(とはいえそうではない、という視点もあります)
僕の視点からは炎上して見えてるけど、たぶん知らない人はマジで全然知らないし、特段「この由々しきナニカにみんなも注目して!」とも思わないので、詳細には語らない。
このアレコレを眺めている中で、僕は、トーンポリシングのことを考えるに至った次第。
これが今「被害者vs被害者」というか、「被害者たちvs被害者たち」みたいになってるように見えて、それによってトーンがブワーッとなってる感じがした。
どっちが加害者でどっちが被害者とか、どっちの語ってる問題のほうが重大とか、誰が当事者で誰が部外者とか、そういう二元論にはおさまらない話を、それぞれが、本当にそれぞれが話したいコト(最も問題視してることや、最も心にトゲが刺さっていること)を喋るので、あるところでは議論がかみ合っても、それを見た人が「そこ重要じゃないでしょ」と指摘したりして、それに誰かが反応してるうちにまた違う話になったりして、到底「おまとめ」できるような状況じゃなかった。
だけどやっぱり「おまとめ」しようとする人もいるし、それには価値があるけどそれを嫌がる人もいて、なんなら「おまとまってない」と考える人もいるし、「おまとめしようとする行為」そのものを忌避する人もいるし。まあ、それも当然っちゃ当然で。
で、実際やっぱ、現在まで「おまとまっている」とは思えなくて、うん。
あ、上記の表現だと「どっちもどっち」みたいなことを言いたがってるみたいに読めるかもしれないけど、そうじゃなくて、完全に二元論で語るべき、善悪がわかりやすい話も混ざってると思ってます。
僕の視点ではそれが「言葉遣い」だったりして、取り出しやすかったから、トーンポリシングの話として、そこだけ書いてみた感じ。
でも、そこだけ抜き出して語ってもしょうがないというか、別の観点から見れば三元論にも四元論にもなりうる。
そもそも「どっちもどっち」の「どっち」がすでに「あっちもこっちも」で、特定の「どっち」ではないものとして、眺めるしかないと感じてます。
いやもう、これはもう、今からこの渦中の議論に入るのは無理だと思う。
入っていく人はやめとけ。無理よ。
「サピエンス全史」を編纂するレベルの時間と知識と気概がないと、無理。
ただただもう、ぼんやりとした全体像というか、「人間の営みの、とある一部分」っていう感覚で捉えないと、「何が起きた?」とか、そういうレベルではとらえられない。
でも、ツイッターだから、続々入っていく人がいる。
いろいろな話題とか、いろいろな怒りとか悲しみとか痛みとか、社会課題とか、個人的な過去とかが入り混じってる。
もし仮に僕がこうして考えてることを、「参戦!」みたいな感じでリプやら引用リツイートでツイッターに投稿したら、また別の角度が増えてしまうだけ。しかもめちゃくちゃ些末な。マジ、関係ない話として。
Twitterはもう、すごいわ。
めっちゃTwitterって感じやわ。
これでも、石川優実さんはわりと確信犯的(誤用)というか、ブラックジャックによろしくの精神科編の新聞記者みたいな感覚で、ツイッターとかインターネットを取り扱ってるようにも見える。
そこちょっとずるく感じるというか、「…わかっててやってるでしょ?」と言いたくはなる。だからダメとかじゃないし、責めたいということではないんだが。
■アイデンティティについて
「演劇人としてどうなんですか!」とか「演劇人はこれでいいんですか!」みたいな表現を目にすると、やっぱり刺さる。
「日本人としてどうなんですか!」なんて余裕で日々シカトしてるけど、「演劇人として」って言われると、すげえ自分事というか、話しかけられてる感がめっちゃする。
あ、刺さるって、別に傷つくとかじゃなくてね。
こう、指とか視線が刺さるって感じ。
これはやっぱ、演劇人的なところにアイデンティティがあるからやろなぁ。
別にそんな…あれやねんけどな…。
そんなに俺、自分のことを「演劇人」と思っては生きてないはずやねんけどな…。
でもやっぱ、刺さんねん。
不思議やわ。演劇人なんやろなぁ、俺。
ほんま、「日本人として」はマジで刺さらんもんな。
「大阪府民」も大して刺さらん。
そこにやっぱアイデンティティがないんやろなぁ。
自分以外の誰かの話、としか思えん。
「一族として!」とかも刺さらん気がする。言われたことないけど。そんな家柄ちゃうし。仮に立派なお家でも、大して帰属意識持たなかった気がするなぁ。
「これだから近畿大学出身者は!」も刺さらん。どうでもいい。
あ、でも「男は!」は結構刺さる。
むっちゃ男やからやろな、俺。
でも「人として!」は刺さらん。
人ちゃうかもしれん、俺。悲しい。
「若者は!」は別に若い時からずっと刺さらんかった。俺以外の若い奴の話やと思ってた。
「オジサンは!」もまだ刺さらん。僕は比較的自分のことをオジサンと思っている方だと思うが、「オジサンは!」と言われた時は、めちゃくちゃ自分以外のオジサンの話だと思う。
……それこそが何よりもオジサンの証明ではあるけども。
「Be ambitious! 我が友よ 冒険者よ」も刺さらん。俺以外の冒険者の話やと思う。
サンボマスターの歌は全部自分に向けられてると思って聞いてる。
サンボマスターはマジでいい。
最高。
あと、「刃渡り2億センチ」が良すぎて引いてる。
やっべ、いつの間にか何の話?
■刃渡り2億センチについて
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ナイフみたいな文章を書きます。「毎日noteを書けるようになったら、月額マガジンをつくろう」と考えていた劇作家・福谷圭祐が、金をとらない限…
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