伊予平岡氏の興亡
平岡氏の出自
久万大除城主大野三代を語るにおいて、荏原城主平岡氏の存在は欠くべからざるものです。なぜなら久万大除城主二代大野利直の正室は、平岡氏の出で三代大野直昌の母だからです。
平岡氏は戦国末期に道後湯築城の守護河野氏の執事を務めた一族ですが、歴史上その出自は不詳となっています。
ただ鎌倉時代から室町時代にかけて、所領とする地名をそのまま苗字として名乗ることが多かったことから、中予で「平岡」の地名を探してみると、伊予市と中山を結ぶ山道の峠に「平岡」という集落がありました。
そこで、現地でご老人に聞き取りしたところ、村の裏山には城があって、つい最近までは年に一度お祀りもしていたそうです。また昔は「えはらまつり」という行事を行っていたとのことで、荏原の平岡氏となんらかのつながりがあったことは確かでしょう。
麓の大平は伊予郡を治めていた森山氏の拠点であることから、配下であった平岡氏が徐々に力をつけ、主家をしのぐ勢力になったいったのではないでしょうか。そしてその触手は浮穴郡へと伸びていきます。
千里城奪取
大平と砥部を結ぶ県道53号線がありますが、山間を縫うように走る県道を15分ほど走ればもう砥部との境の峠です。この周辺は平岡氏にすれば裏庭といった感覚だったでしょう。
浮穴荘と砥部荘は、鎌倉時代初期は河野氏の所領だたのですが、承久の乱で宮方についた河野氏の所領が取り上げられ、浮穴荘は美濃の土岐氏に砥部荘は大和国宇野荘の大森氏に恩賞として与えられました。
大森氏といえば、<太平記>で建武三年(1336)の湊川合戦で『楠木正成に腹を切らせし者』として有名な大森彦七がいますが、その彦七が拠ったとされる千里(せり)城が砥部と広田の境、上尾峠近くの奥深い山の頂にあります。
大洲旧記の川登村の項に千里城について
「大森彦七その後平岡民部之助…」
とあります。
砥部荘の地頭であった大森氏は、時代が下るとともに河野氏との結びつきを強め室町期に被官化されたようです。文明二年(1470)平岡氏は、応仁の乱において河野宗家の下、東奔西走する大森氏の虚をついて千里城を取ります。そして千里城を拠点に砥部、浮穴を侵略していったと思われます。
荏原城のなぞ
さて、戦国期に平岡氏が居城としていた荏原城ですが、もともとは大森氏の城だったものを、この時期に平岡氏が奪い取ったものです。ただそれにしても荏原は土岐氏の所領です。そこになぜ大森氏が城を作ることができたのででしょうか。まして土岐氏の居城の新張城とは700mほどしか離れていません。目と鼻の先に城を作るのを土岐氏が黙って見ていたとは考えられません。これがずっと私の中で疑問として残っていました。
ところが最近、奥久谷の葛掛城祉を探索していたとき、地元の方から偶然『久谷史』お借りすることができました。これに「大和国法隆寺の天平十九年の資財帳を見ると、全国に法隆寺の荘園が四十九ヶ所あって、この中に(中略)浮穴郡一ヶ所となっている。」の記述があり、さらに「久谷村大字上野の大宮八幡宮寺址、上野の丘陵にある瓦窯址などから発見された古瓦の模様は、大和国法隆寺出土の古瓦と同じ模様であるところから考えてみると、浮穴郡における法隆寺の荘園一ヶ所とあるのは、荏原郷の内ではないかと思われる。」とありました。
荏原城や上野の丘陵は荏原北西部に位置し、砥部荘とは隣接しています。さらに大森氏は大和国の出身です。これらから推測すると、大森氏が砥部荘に入部するにあたって、同郷である法隆寺から荘園の管理を委託されたのではないでしょうか。寺社の荘園制度は鎌倉・室町まで続いています。有力寺社の荘園内であれば、地頭の土岐氏も口を出すことができません。したがって同じ荏原郷内に城主の異なる城が隣接するいびつな配置になったのではないでしょうか。
応仁の乱以降、荘園制度は崩壊し、荘園は地元有力武士に横領されていきます。法隆寺の荘園も荏原城から大森氏が追われた時点で、平岡氏の所領とされたものと思われます。そして文明十一年(1479)平岡氏によって大森氏は亡ぼされ砥部荘も平岡領に併呑されます。
平岡競望
さて、砥部荘を取った平岡氏は浮穴荘侵略にかかります。
千里城から北に下り、蓿(ヲツケ)川の対岸の尾根を登り、国道33号線が走る大きな尾根を1つ越えれば奥久谷です。麓には葛掛五社神社があり、その向かいの山が明神葛城祉です。ここを足場に浮穴を狙っていた平岡氏を土岐氏の依頼を受けた大野氏が討ったものと思われます。
しかし、平岡氏の侵略の手は緩むことはなく、ついに土岐氏の本城徳川城(尉の城)が落とされます。
こうした一連の大野綱直宛の書状からも読み取れるように、応仁の乱以降、幕府の権威が弱まるにともない、その威光は地方まで及ばなくなっていたのです。
結局、守護河野氏の助力も得られず、美濃豪族の支流伊予土岐氏もまた平岡氏に追われる形で、現在の今治市大西へと転居してしまいます。
一方、伊予郡の一族長にすぎなかった荏原城主平岡房実(ふさざね)は、その力を買われ河野の重臣として迎えられ執事となっています。乱世の奸雄の面目躍如といったところです。
平岡氏と大野氏
では平岡氏と大野氏との関係はどうなったのでしょう。
冒頭でも述べたように、大除城二代目城主大野利直は平岡房実の娘を娶っています。おそらく河野氏の仲介のもとでの政略結婚だったことは間違いありません。しかし戦国の世の習いで、両氏の関係はその後も良好だったとはいえません。
天文二十二年(1553)八月、大野利直は浮穴郡小手滝城主戒能通運と不和になり、小手滝城を攻めますが、反対に利直は敗れ、命からがら逃げ帰ることとなります。
そこで利直はこの戦いに平岡房実が援助しなかったことをうらみ、その報復として平岡氏の持城であった浮穴郡上林の花山城を攻め落とし自分の持城としてしまいます。こうしたことで、大野、平岡両氏の間はいよいよ険悪となっていきましたが、その後、河野氏の仲裁で和睦しています。
同年、利直は直昌(なおしげ)に家督をゆずっていますが、房実はそれを和睦の条件としたのかもしれません。
大野直昌が当主となってからは、両氏の間に目立った争いはありません。おそらく土佐の長宗我部元親の台頭により、呉越同舟で協力せざるを得なくなったというのが実相でしょう。
平岡通倚の戦歴とその後
平岡房実の没後、その長男通資が後継となりましたが、早世してしまいます。したがって、その弟の通倚(みちより)があとを継ぎ河野氏の執事となります。兄通資は温厚な人物だったようですが、通倚は父親に似て英明で武略に長じていたようです。その戦歴を見てみましょう。
元亀三年(1572)七月、安芸国毛利輝元の家臣苫西ら八千騎が三津・松前方面に侵入したことがあった。通倚は松前方面に出陣し撃退した。ついで同年九月、新居郡髙外木城主石川通清が河野氏に反したときも河野氏の命によて河野通吉に従い、石川氏を降しています。
天正元年(1573)三月、喜多郡地蔵ヶ獄城(大洲)の大野直之(直昌の弟)が土佐の長宗我部元親に通じたので、河野通吉は地蔵ヶ獄城を攻め、通倚・直昌ら浮穴・伊予郡の軍勢五百余騎を率いて出陣、中国の毛利氏の助けによってこれを平定した。
天正三年(1575)、毛利輝元の軍勢が織田信長の軍と対陣をし、河野氏に援軍を求めてきた。通倚らは二千五百騎で毛利勢を助けています。
天正十年(1582)織田信長の命を受け、羽柴秀吉が備中高松城を攻めたときも毛利氏の要請受けて、通倚ら伊予の軍勢三千六百余騎は岡山に赴き毛利氏を援助した。
天正十三年(1585)豊臣秀吉は四国征伐を行うことになり、その家臣小早川隆景の大軍は新居浜付近に上陸、新居・周布・桑村・越智・野間・風早郡などの諸城落とし、道後の湯築城にせまった。中予の武将はそれぞれ城をすてて湯築城に集まり、その守備を固めたが、平岡通倚は二の丸を守備している。隆景は城中に書を送って、降伏をすすめ、城中でも評議の結果、通倚の子通長を人質として降伏した。秀吉は伊予三十五万石を小早川隆景に与えた。
湯築城主であった河野通直は、湯築城に在城していたが、天正十五年七月隆景が筑前名島へ転封したとき、家臣をつれて安芸の竹原に移住、通倚もこれに従って彼の地に移ったが、その後どうなったかは分からない。
伊予の乱世にまさに彗星のごとく現れ、親子二代ではあったが確かな光芒を放って消えていた。荏原城主平岡通倚の墓は、四国霊場四十六番札所浄瑠璃寺の境内にひっそりと佇んでいます。
平岡氏のその後
山口県大島郡和佐村の平岡家系図によると、通倚には左近将監・孫右衛門・善兵衛直房ら三人の弟があったとあります。左近将監は天正七年に病没していますが、孫右衛門と直房は慶長五年の東西合戦に参戦しているようです。
慶長五年(1600)九月、関ヶ原で徳川家康と石田三成の西軍が天下の政権を賭けて激突します。西軍の総大将である毛利氏の軍勢が伊予に攻め寄せたとき、従軍した河野の旧臣の中に平岡兄弟の姿もありました。
三津浜に上陸した毛利勢と河野の旧臣は、松前城の留守をあずかっていた佃十成(かずなり)の夜襲によって大敗を喫し、残兵は久米の如来寺にたてこもります。平岡直房は、荏原城の跡に拠って一揆を組織し、毛利勢に加勢しますが、いずれも松前城兵に鎮圧されてしまいます。直房は、なんとか追及の手を逃れ海路によって山口に帰還したようです。
関ヶ原の戦後、毛利輝元は直房を家臣として召し抱え、五百石を給し、長州萩の邸で住まわせます。その後、直房は大島郡和佐村に隠居し、慶安元年三月二十日七十九歳で没します。嫡子就房が家を継ぎ、一時姓を岡氏と改めますが、後に平岡に戻しています。そして、その子孫は明治維新まで毛利氏に仕えました。