ジョン万次郎や正岡子規が見た三坂峠からの景色
三坂峠のなりたち
古事記によると伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)の国生みにより2番目に生まれたのが四国とされています。その四国の最高峰石鎚山を中核とする石鎚山系は、フィリピン海プレートのユーラシアプレートへの北西方向への沈み込みに伴い、東西に走る中央構造線にそって切り取られた南部が隆起し造られました。
これにより石鎚山系の北側は道前平野・道後平野に立てられた屏風のように急峻な地形となり、他方、南側は隆起した岩石がいくつもの山々を形成し不規則に折り重なりながら連なり、徐々に太平洋へと沈み込んでいます。
したがって松山市から高知市につながる国道33号線の三坂峠からは、眼下に松山平野とその向こうに大小の島々が浮かぶ瀬戸内海が一望でき、息をのむ絶景が楽しめます。
三坂からの夜景
松山市内から車で20分、眼下には光の海が広がってきます。松山城を中心に放射状に伸びた光の帯の間を無数のきら星がまたたいています。
いやがうえにもロマンチックな夜を演出してくれる夜の三坂道は、恋人達のとっておきのドライブコースとなっています。
土佐街道三坂峠
国道33号線の三坂峠頂上から久万方面に少し下ると右カーブを示す大きな道路標識の下に遍路の道しるべがあります。
そこから浄瑠璃寺方向に左折し草道を50mほど進むと昔の土佐街道の三坂峠があります。
久万山真景絵巻
幕末の松山藩絵師遠藤広美が描いたと伝えられる久万山真景絵巻に三坂峠からの風景が描かれています。中央やや右上に松山城の立つ城山、中央上には瀬戸内海に浮かぶ興居島(ごごしま)と大小の島々が見えます。
この絵が描かれたほぼ同時期の1852年、アメリカから帰国したジョン万次郎は三坂峠を越え10年ぶりの故郷への道を歩いています。また1859年には三菱の創始者岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕と言われる長岡謙吉もこの峠を越え長崎へ向かっています。
旅人の歌ののぼりゆく若葉かな
この句は松山が生んだ俳人正岡子規が三坂峠に立って詠んだものです。記録によると正岡子規は友人と明治14年と22年に訪れ、漢詩も詠んでいます。
彼らの瞳にも真景絵巻と同じ風景が映っていたことでしょう。まさに坂の上の雲から眺めている心持ちだったのではないでしょうか。
ドライブイン駐車場跡地脇には種田山頭火の句碑もある。山頭火は昭和14年に久万の地を訪れています。
三坂峠春秋
愛媛と高知を結ぶ重要な動脈として、国道33号線が開通したのは明治25年です。以来、その沿道はいろいろと変化を遂げてきました。
昭和35年には町当局の側面的な援助のもと、峠に有志の手でバンガローや展望台を作ったりした。36年には「久万桜樹会」を組織して桜を植えたりもして、観光地としての足がかりを作りました。
41年7月、伊予鉄の手によって、三坂峠の町有地にドライブインが建設されたことで三坂峠が観光地として、春の新緑、夏の納涼、秋の紅葉、冬の雪見と、賑わいをみせていました。しかし67年、高知自動車道の開通により車の流れが変わり、ドライブインは営業不振となり平成20年に廃業となってしまいました。
また平成24年、2つのトンネル擁する三坂自動車道開通により、平成27年4月1日より、三坂峠を通る旧路線は国道33号の指定を外され、国道440号の単独区間となりました。
これにともない車両の通行量は激減し、この道を利用するのは三坂周辺に暮らす人たちと景観を楽しむ人たちが中心で、ロードバイク愛好家や走り屋さんには格好のツーリングコースとなっています。
ただ土佐街道三坂峠は、歩き遍路の主要道として今も変わらず利用されています。できればお遍路の憩いの場として、現在景観を遮断している杉を伐採し、峠茶屋が復活すればと願うのは、ここを通る人たちの共通の思いなのではないでしょうか。