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ジョン万次郎や正岡子規が見た三坂峠からの景色

三坂峠のなりたち

古事記によると伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)の国生みにより2番目に生まれたのが四国とされています。その四国の最高峰石鎚山を中核とする石鎚山系は、フィリピン海プレートのユーラシアプレートへの北西方向への沈み込みに伴い、東西に走る中央構造線にそって切り取られた南部が隆起し造られました。

天山三山の東山から望む三坂峠
松山市天山三山の東山から見た石鎚山系皿が嶺と三坂
(中央のくぼんだ部分が三坂峠その左の尾根が皿が嶺)

これにより石鎚山系の北側は道前平野・道後平野に立てられた屏風のように急峻な地形となり、他方、南側は隆起した岩石がいくつもの山々を形成し不規則に折り重なりながら連なり、徐々に太平洋へと沈み込んでいます。
したがって松山市から高知市につながる国道33号線の三坂峠からは、眼下に松山平野とその向こうに大小の島々が浮かぶ瀬戸内海が一望でき、息をのむ絶景が楽しめます。

三坂からの景色2-1
三坂峠からの道前平野全景

三坂峠の民話
ある親子が久万から松山へ歩いていた。
三坂峠にさしかかったとき息子がその絶景に
「とうちゃん、松山ってひろいなあ!」
と感嘆の声をあげた。
すると父親が物知りげに
「広いじゃろう、ほじゃけど日本はこの10倍はあるんぞ。」
と言ったとか‥

三坂からの夜景

松山夜景
松山市夜景

松山市内から車で20分、眼下には光の海が広がってきます。松山城を中心に放射状に伸びた光の帯の間を無数のきら星がまたたいています。
いやがうえにもロマンチックな夜を演出してくれる夜の三坂道は、恋人達のとっておきのドライブコースとなっています。

土佐街道三坂峠

三坂峠
この枝道を左に50mほど進むと旧三坂峠

国道33号線の三坂峠頂上から久万方面に少し下ると右カーブを示す大きな道路標識の下に遍路の道しるべがあります。
そこから浄瑠璃寺方向に左折し草道を50mほど進むと昔の土佐街道の三坂峠があります。

土佐街道三坂峠
久万方面から見た三坂峠
土佐街道三坂峠4
三坂峠から久万に向かう土佐街道

三坂馬子唄
三坂越えすりゃ 雪降りかかる
       もどりゃ妻子が 泣きかかる
むごいもんぞな 久万山馬子は
             三坂夜出て 夜もどる

三坂馬子唄
土佐街道三坂峠3
峠から松山方向に下る土佐街道


三坂峠説明立て札
三坂峠説明立て札

三坂峠 標高七二十メートル 久万高原町
伊予と土佐を結ぶ土佐街道にある急峻な峠です。江戸時代初期に久万の商人山之内仰西(こうさい)によって拓かれました。明治二十七年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。
峠からは松山平野が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはじめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からも分かります。

久万山真景絵巻

幕末の松山藩絵師遠藤広美が描いたと伝えられる久万山真景絵巻に三坂峠からの風景が描かれています。中央やや右上に松山城の立つ城山、中央上には瀬戸内海に浮かぶ興居島(ごごしま)と大小の島々が見えます。

久万山真景絵巻(三坂峠)
久万山真景絵巻(久万高原町美術館所蔵)

この絵が描かれたほぼ同時期の1852年、アメリカから帰国したジョン万次郎は三坂峠を越え10年ぶりの故郷への道を歩いています。また1859年には三菱の創始者岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕と言われる長岡謙吉もこの峠を越え長崎へ向かっています。

旅人の歌ののぼりゆく若葉かな

この句は松山が生んだ俳人正岡子規が三坂峠に立って詠んだものです。記録によると正岡子規は友人と明治14年と22年に訪れ、漢詩も詠んでいます。

正岡子規句碑
正岡子規歌碑(三坂)

三 坂 望 松 山 城
欹危小径砲晨行(欹危たる小径 晨を破って行く)
松田蒲森絶世情(松樹蒲森 絶世の情)
独停竹節回首望(独り竹節を停め 首を回らして望めば)
白雲湧処是松城(白雲湧く処 これ松城)

正岡子規作

彼らの瞳にも真景絵巻と同じ風景が映っていたことでしょう。まさに坂の上の雲から眺めている心持ちだったのではないでしょうか。

三坂句碑
種田山頭火句碑

秋風あるいてもあるいても(正面)
晴れたり曇ったり酔うたり覚めたり秋は行く(側面)

種田山頭火作

ドライブイン駐車場跡地脇には種田山頭火の句碑もある。山頭火は昭和14年に久万の地を訪れています。


三坂峠春秋

愛媛と高知を結ぶ重要な動脈として、国道33号線が開通したのは明治25年です。以来、その沿道はいろいろと変化を遂げてきました。

昭和35年には町当局の側面的な援助のもと、峠に有志の手でバンガローや展望台を作ったりした。36年には「久万桜樹会」を組織して桜を植えたりもして、観光地としての足がかりを作りました。

41年7月、伊予鉄の手によって、三坂峠の町有地にドライブインが建設されたことで三坂峠が観光地として、春の新緑、夏の納涼、秋の紅葉、冬の雪見と、賑わいをみせていました。しかし67年、高知自動車道の開通により車の流れが変わり、ドライブインは営業不振となり平成20年に廃業となってしまいました。

ドライブイン跡2
ドライブイン・展望台跡地


また平成24年、2つのトンネル擁する三坂自動車道開通により、平成27年4月1日より、三坂峠を通る旧路線は国道33号の指定を外され、国道440号の単独区間となりました。

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三坂自動車道第一トンネル(3097m)
三坂道路2
三坂自動車道第二トンネル(1300m)

これにともない車両の通行量は激減し、この道を利用するのは三坂周辺に暮らす人たちと景観を楽しむ人たちが中心で、ロードバイク愛好家や走り屋さんには格好のツーリングコースとなっています。

ただ土佐街道三坂峠は、歩き遍路の主要道として今も変わらず利用されています。できればお遍路の憩いの場として、現在景観を遮断している杉を伐採し、峠茶屋が復活すればと願うのは、ここを通る人たちの共通の思いなのではないでしょうか。

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