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松山奇談 八百八狸Ⅷ

第八席

国表の水野吉右衛門の家来市助は国を発ち、江戸表愛宕下隠岐様の邸にいます元老水野勘解由に直接会って密書を渡したい。ただ、江戸表の他の家来達に知られず勘解由に会う事は難しく、愛宕下近傍に宿を取って、毎日のように邸の模様を伺っています。

さて、市助は勘解由を前にも目通りしているので知ってはいますが、間が悪くなかなか会うことができません。とはいっても何の用もなく、抜け道でもないのに邸に入る訳にもいかず、すでに五六日日参しています。

今日も今日とて、御邸の表をぶらついていると、町家の下女らしい者が岡持ちを提て、出たり入ったりしていて、女中が出て行ったかと思うと、小僧が桶を持って入る。そうかと思うと、また女が来て岡持を堤て門を潜っています。

(何だろう)
 と、思った市助が、
「これ、女中や」
「はい」
「お前に少し聞きたい事があるのだが、この邸の者か」
「いえ、私は前町の者で御座います」
「はあ、そうか。前町の者がこうやって岡持を堤て入り、今、出て来たがこれは何だぇ」

「御豆腐を買いに来ましたので」
「御豆腐を買いに…。豆腐、妙だなこの邸で売っているのか」
「左様で御座います。ここの御豆腐は伊豫豆腐と申しまして、殿様が召上がられた後、御家中の方が貰い受け、それを売っているので御座います。だから幾らでもあるというものでなく、余程朝早く行かなければ買えません。何ですねぇ。売っているといっても、表向きは前町の町人にくれているって感じで、至って安いですよ」

「はあ、そうか。その売り場何処にあるかのう」
「あの御屋敷に入りまして、右手の方に長屋門の様な建物がありますから、そこへ行って丁寧に聞いて下さい。でないと剣突を食らい(荒っぽく叱られる)ますよ。当たり前の御豆腐屋へ行くような気持ちだといけません。ちゃんと門番に御断りになって『御豆腐を頂きに参りました』と、こう仰いましたらお咎めはありません」

「ああそうか…。いい事を教えてくれた」
 と、市助は古道具屋に行って、岡持の重たくないのを買い、町人の姿になって、御門に掛り、
「お願い致します」

「何だ」
「御豆腐を頂戴致したい者で…。私は田舎者で御座いますが、主人から『御屋敷に行って、殿様の召上った後の豆腐を、町人にも下さるので行ってこい』と、言われたのですが、何方で御座いましょうか」

「門を潜って右の方に行き、突き当たって左に曲がると仲間部屋がある。その前に長暖簾が下っている。そこだ」
「有難う存じます」
 といって、門を潜ると教えて貰った通り行き、
「どうか御豆腐を頂戴致しとう存じます」
 というと、

「幾らやるな」
「左様で御座いますね。どうか百文分頂戴致しとう存じます」
「百文分の豆腐を入れるのに何を持って来た。四斗樽(七十二㍑)でも持って来たのか」
「どう致しまして、これに入れます」

「べら棒めそんな小さな岡持に、百文分の豆腐が入るものか。百文持って行って釣りを貰ってこいと言われたのだろう。分らねえ奴だ。田舎者が、二十四文分も買えば五人や六人が食う分ある…」

その時分でありますから御豆腐は安く、特に、邸で売っているので尚更安うございます。

「少々お聞き申します」
「何だ」
「水野様の御小屋は何処で御座いましょうか」
「水野勘解由様のお住まいか」
「へぃ」
「水野様の処へ行くのならば、ここの処を行くと、玄関前に出る。それを曲がる横町があり、そこに長屋門があって、角から三軒目の立派な玄関が付いている建物が、当家老職の水野勘解由様のお住まいだ」

「有難う御座います」
 といって、市助は水野勘解由の御門の処に行き、岡持を傍に置いて玄関を見ていましたが、案内に密書を渡す訳にもいかず、どうしたらよいものかと暫く思案をしていましたが、何を思ったか岡持の中の豆腐を掴みよく搾って、それを口に一杯入れて、玄関の前でウーンと呻き、豆腐を吐き出しながら引っ繰り返り、癲癇病みの真似をしました。

水野様の家来がこれを見まして、
「何だこの野郎、癲癇病みかな。いやぁ豆腐の様なものを吐き出してらぁ」
 豆腐を食って吐き出したのだから、豆腐に違いございません。
「これこれ、頭に草履を載せてやれ」

「玄関先で持病を起こすとは厄介な奴だ。町の者みたいだぜ…」
 と、ワイワイ騒いでいるのが、奥で書物を読んでいた勘解由に聞えたので、
「これこれ、何だこの騒ぎは」

「何処ぞの若者が参りまして、玄関の敷台に引っ繰り返り泡を吹きましたので、小者どもが今手当を致している処で御座います」
「そうか、処でどんな男だ」
「はい、町人のようですが、どうも分りづらい奴でして」
「分らぬ奴と言う事があるか。書いた物でも所持しておらぬか」
「未だ、調べておりません」

水野様は小刀を前番に渡し、太刀を提げて玄関の次の間に行き、どんな者かと覗いて見ると、間違いなく国表の水野吉右衛門の家来で忠義者の市助です。
(はてな、市助だが妙な事をしている。これには何か仔細があるのだろう)
 と、玄関に出て行き、

「これこれ、騒ぐな。癲癇病だな。うん、これは中々重いようだ。幸い当家に一子相伝の癲癇の薬があるからこの者に遣わそう。不憫な奴だ。そう立ち騒ぐな捨置け、その内に治まる。治まったら妙薬を遣わす。頭に草履なぞを載せるな…。治まったら庭口に廻せ。癇の薬を儂がやると申し聞かして庭に通せ」

「左様で御座いますか。この野郎は良い処に引っ繰り返ったじゃぁないか。癲癇の薬を下さるとは運のいい野郎だ…」
 市助が眼を細く開いて見ると、水野勘解由に違いない。
(しめた)
 と悦びましたが、「旦那様」とは言えない。勘解由も「市助か」とも言わず、互いに目と目で頷き、勘解由はその儘にして奥に入りました。

 市助が、
「ううーん」
 といって、今気が付いたふりをして、四方をキョロキョロ見廻していますと、
「これこれ、お前は何処の者だな」
「私は前町の者で御座いますが、御豆腐を頂戴に参りまして、入った道を間違いこの家の前まで来た時、持病の癲癇が起こりまして、その前後は少しも分りませんがどちら様で御座いますか」

「どちら様じゃぁないや…。御家老様の水野勘解由様の御屋敷だ」
「へい、御家老様の…。どうか命だけお助け下さりまするよう」
「べら棒め、命を取る処じゃぁねえ。旦那は御慈悲深いので癲癇の薬を下さるというから、庭に通れ」
 と、家来が市助を引っ張って庭に連れて行き、筵の上へ座らせました。

 暫くすると勘解由がそこへ来まして、
「癲癇病とは不憫な。只今薬をやるぞ…」
「有難う存じます」

「これこれ、その方共は遠慮致せ」
「はい、少々お願いが御座いますが」
「何だ」
「私にも癲癇の薬を頂戴致しとう存じます」
「その方も癲癇があるか」
「癲癇は御座いませんが、売って儲けます」
「控えろ…。向こうに行っておれ」
小者を追っ払い、後は二人差し向えです。

「市助、人に聞かれたくない様子だったので、あのようなにこれへ通したが、何事であるか」
 と問われて、市助は懐中から一封の書状を取出しますと、
「これは主人より貴方様へ、『よろしく申し上げてくれ』との事で御座います」

「うん…、左様か。只今返事を遣わすので少々そこに控えておれ」
 といって、封書を受取りましたが、その他は別に何事も言いません。
諺に、『言多きは品なし』というのがありますが、実に尤も千万でございます。

勘解由は手紙を持って奥に入り、開封すると国表の事が詳しく纏めています。直ぐに返事を書き、金を十両持って、再び市助の処に行きまして、
「その方は実に忠義者だ。さぞかし只今まで心労をしたであろう。これは返書である。大切に持参してくれ。また、この金子十両は気晴らしに使ってくれ」

「有難う存じます」
 と、手紙と金子を受取りまして、
「左様なれば、御機嫌よろしゅう」
「大儀…。これこれ」
「はい」
「癲癇で倒れたその方が、道を知っておっては、家来が不審に思う。只今送らせてやろう…。これ藤馬」

若侍がそこへ来まして、
「はっ、何用で…」
「この者を門まで送りいたせ」
「畏まりました」
 と、市助は門まで送られ礼を言って、急いで国表へ帰り、事の委細を主人吉右衛門に告げたのでございます。

さて水野勘解由は、国表に於いて一時に悪人共を召し取ろうとして、隠岐守病気を御上へ言上し、若殿直治郎を国表へ送り出すにあたって、悪人を先に発たせたり、または、御供の中へ加えて連れて行くように計画をたてました。

 直治郎君は大公儀御老中の太田備中守に、
『四月大名ですが、父の病気見舞いに国へ参りたく、八月に江戸表を発ちたい』
 と、願い出ました。

国表では、老職の水野吉右衛門、水野藤右衛門、大道寺矢柄之助等が、もっぱら悪人達の様子に目を注でいましたが、何分はっきりしません。

然るに、江戸家老水野勘解由は直治郎君の御前に出まして、人払いの上、申し上げましたのは、
「近頃、国表は何かと騒がしゅう御座います。しかし、誰々が不都合を致しているのか、未だ十分には調がついていません。ただ、一両名だけは分かっており、また、江戸表の邸にも同意している者がおります。若君には国表へ行って頂きますように」
「爺の良きように取り計らえ」

八月に入り、いよいよ出発という時に、直治郎君は脇坂五郎左衛門を呼び出まして、
「その方、父上病気につき予が国表へ罷り越す事、予より先に行って申し伝えよ」
「委細、畏まりました」
「急いで行け」
「はっ」
早速仕度をして、脇坂は国表へ向います。

他にも、江戸表の取り締まりをしている小林喜三郎に、
「その方、脇坂を追って国表へ行き、不都合がないように致せ。なお、後から直治郎が罷り越す事を申し伝えよ」

小林は御言葉に随って、直ぐに江戸表を出発します。これは江戸にいる悪人を国に行かせ、同時に召し捕るためでございます。
その後、直治郎君も出発し、道中は何ら問題もなく、大坂の川口から乗船して三津浜へと向ってございます。

さて、国表では脇坂五郎左衛門が先に着いていて、事の経過を奥平久兵衛に告げて、悪人共が相談しています。

「何しろ直治郎君が国に着くと、殊によると我等を調べるかも知れない。直治郎君は幼年だから気が付くまいが、老職の者が気付き調べるかも知れない。そうなれば一大事だ。

そこでだ、当家の家風として殿の船が見え次第、三津浜の台場から一発空砲を放つのが通例になっている。三津浜より城下まで一里としているが、その実は三十町程しかなく、この音を聞いて直ぐに行列を揃えても間に合う距離だ。

今回はその台場の大砲に弾丸を込めて、船が見えれば一発でこれを打ち砕き、直治郎君を殺してしまえば老職の者も生きてはおれぬので、我らの企みは露見しない。

その上で『その罪は台場役人にある』と言っておき、表向きは取り方を差し出し、内実は逃がしてやる。尤も小役人には十分に金をやり、手当をしておけば承知すると思うが、如何であろうか」
 と、奥平久兵衛が発言しますと、一同の者が、
「それは上策、早速取り計らおう」

 という事で、台場係の役人に話すと、何分大金が入るというので、欲に目のない小役人、両人共に喜んで承知し、大砲に弾丸込めて船が見え次第撃ち出そうと待っています。

神でない身の直治郎君、これを知る由もない。
海上は風もなく、八月半ばの穏やかな播州灘へ入ってございます。

「よい月じゃな」
「御意に御座います」
「あぁ、よい月じゃ」
 と、月を眺めていると、船の舳に七十余歳の老人が麻の上下を着て着座しています。直治郎君はぬっくりと立ち上がりまして、船の舳に来ますと、
「老人姿を顕したな…。何だ」
 と、老人に声を掛けましたが、これぞ山内輿左衛門の姿を借りた、『隠神』という神通力を持った大狸、

「えー、若殿、今度三津浜へ着きますと、身に凶事が起りますので、陸路を取られますように」
「うん…」
「御供方は一人か二人お連れすれば、私が眷属八百八狸で以って守護いたします。夢々、御疑い遊ばすな」
「左様か。予は満足に思うぞ。予が城主になった暁には、その方を厚く祭ってやろう」
「有難う存じます」
 と、いったかと思うと、パッと消えた。

澁澤五郎治、服部九一郎、三浦藤蔵など近習の者共は、
(若君は何を言っているか)
 と、思ってございます。

その内に夜もほのぼのと明けまして、
「これこれ、予は船は嫌になった。陸を行きたい」
「おむづかり遊ばしては成りません。途中から上陸する事は先例に御座いません。故に、お止め下さいませ」
「しかし予は嫌じゃ。船は嫌じゃ。嫌じゃ」
 と、どうしても承知しない。子供とはいえ、小言を言う訳にもいかず仕様がない。

「澁澤殿、どうしたものか」
「どうも仕様がない。表向きになると良くないので、家来が何かで上陸をした事にして、少人数で警護するのが良かろう…」

ここで、亀丸という小姓に若殿の衣服着せて船に乗せておき、自分は一両人の御供とした。
「いや、供方は少人数で苦しゅうない。途中は別に供をしてくれる者のがある…」
 家来は驚きます。夕べは独り言を言い、今はまた別に供をしてくれる者があると言う、
(気が違ったかしら)
 と、思ってございます。

播州の高砂の浦へ上陸して、服部九一郎と澁澤五郎治が籠の右と左に付添って警護する事にしましてございます。すると、向こうの両側に草履取、鋏箱、鑓持などがズラーと並んでいます。

「九一郎、見て見い。予の供は揃ったぞ」
「これは驚きました。何時の間にこんな御行列を揃えました。不思議で御座いますな。一体全体これは何でありましょう」
「これは『隠神』という予の家を守護してくれる狸だぞ」
「狸…。澁澤殿、狸だそうです」
「うん…。不思議ですなぁ」

八百八狸が警衛をして、その夜の九つ(午前0時)時分には、松山城に入りましてございます。

服部九一郎が大声で、
「御帰城、若君、御帰城」
 と、いったのに驚ろいた役人が、

(何だぁ。御帰城だと。今時分に御着きになる訳がない。また、御着きになるとすれば、前もって『何時に御着きになる』という報せがあるはずだ。御台場で空砲を発すれば、大殿なら大殿なりの行列で出迎えに行く。若様ならば若様なり供で行かなければならん。今時分御着きになるというは不思議だ)
 と思いましたが、大手の御門を預っているものが見ますと、直治郎君に重役の方が就いていますので、これを上役に告げて、御門を八文字に開きました。

「如何にして上陸されまして御座います」
「仔細あって参った」
 と言葉を残し、服部と澁澤の両人が直治郎君の手を取って、奥に行き御休息をなさっていますと、一発の砲声がドーンと聞えました。これは亀丸殿名代の船が三津浜の近傍に見えたので、台場係の役人が約束どおり一発打ち出しましたが、今のように鋼鉄で出来ている船などない時分でしたから、打たれたら堪りません。

見る見る間に船は壊れ、乗組んだ人々は溺死をしたり、または、弾に当たって死んだりして、大騒動でございます。
直ぐに助船を出しましたが、中々容易ではありません。係の役人は砲弾を一発撃つと、そのままにして逃げてしまいました。

「それ取り押さえろ」
 と、馳せ付けて来た者も元々ぐるなので、逃げた役人が右へ行ったのを左で探しています。これじゃぁ見つかりっこありません。

この始末を奥平久兵衛に報せると、
(直治郎君は死んだ。間違ない。もう大丈夫)
 と、安心しました。
 そこへ、
「久兵衛、急ぎの御召し」
 に、より登城しますと、計らず、
『久兵衛の悪事、ここに露見し取り押さえられて船牢に入れられる』
 という一席は、一寸一息付きまして弁じましょう。


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