西予市の北東高知県との県境に、標高1000mを越える高原が広がる大野ヶ原というところがあります。
大野ヶ原はもともと浮島が原(うきしまがはら=小学校の近くにある小松が池に浮島があるのが由来)と呼ばれ、その後一朝が原(いちあさがはら=弘法大師にまつわる逸話に由来)と名を変えましたが、久万大除城主の大野直昌が長曾我部元親軍とこの地で戦ったことから、現在では「大野ヶ原」と呼ばれるようになったとのことです。
ここではその大野ヶ原の戦いを今に伝える、三つの伝承についてまとめてみました。
笹ヶ峠合戦
これが予陽河野家譜が語るところの「笹ヶ峠合戦」、今に言う「大野ヶ原の戦い」です。
「熊大代家城主大野家由来」「大野直昌由来聞書」などにも、笹ヶ峠合戦にいたるまでの元親と直昌との間で往復したとされる文書の記述などがありますが、いくつか疑問点も指摘されていて、先祖の華々しい活躍を伝えようとする後裔の創作ではないかと見る向きもあります。
ただことの顛末は別にして、この時点で一族家臣の多くが討死し、直昌の勢力が急速に低下していることから、何らかの騒乱があったことは間違いないでしょう。
そこでとなりの高知県津野町に、この戦いについての記録や伝承は残っていないものかと思い、津野町教育委員会に問い合わせたところ、学芸員の田中勝幸様より、津野町の旧家前田家に伝わる古書の写しを送っていただきました。
作者は18世紀後半、北川村(現在の津野町北川)で医師をしていた上岡秀造だと言われているそうです。
津野の古書における大野ヶ原の戦い
こちらは予陽河野家譜とは随分趣が異なり、所々に創作の域をでない記述や直行の所属や死など史実と異なる記述も見られますが、「大野直行」「長曾我部元親」「和睦」「仲裁」「だまし討ち」などの共通ワードもあり、このあたりに歴史の真実を紐解くヒントがあるのではないかと思われます。
さて、3つ目は番外編といったところで、偶然小田町の廣瀬神社で見つけた神社の由緒書きにあった大野ヶ原の戦いを紹介しましょう。
小田廣瀬神社由緒における大野ヶ原の戦い
こちらは年代も遡り、鎌倉時代前期のようです。古来、隣国との騒乱はよくあることで、このような争いがあったとしても何ら不思議ではありません。そうすると大野ヶ原の戦いは二度あったということになります。
冒頭でもふれたように鎌倉時代であればまだ「一朝が原」と呼ばれたいた時期なので「大野ヶ原」の地名がでてくるのは少し変ですが、伝承していく内に時代に合った呼称に変更されていったのかもしれません。