平家物語と久万郷
赤蔵ヶ池の鵺伝説
これは久万高原町黒藤川二箆(ふたつの)にある赤蔵(あぞう)ヶ池にまつわる鵺伝説です。この話のもとになっているのは、平家物語の「源頼政の鵺退治」の話です。
平家物語の「鵺退治」
こちらには、「赤蔵ヶ池」も「源頼政の母」も出てきません。また源頼政は、摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)の人で久万高原町二箆とは何の接点もありません。
では、なぜ「赤蔵ヶ池」と「源頼政の鵺退治」が結びついたのでしょうか?
それはどうやら鎌倉時代から室町時代にかけて、浮穴及び久万郷の地頭であった「土岐氏」に関係があるようです。
土岐氏とは
清和源氏源頼光の7代の孫光衡が平安時代末期に美濃国土岐郡内に住したことで土岐氏と称したのが始まりのようです。
鎌倉時代には、北条氏と血縁関係を結んでおり、土岐氏が幕府において有力な地位にあったことが分かります。
また室町時代、土岐頼康のときには、美濃国・尾張国・伊勢国の3か国の守護を兼務して繁栄しました。しかし、その子康行の代になると、守護の勢力拡大を恐れた足利義満は、内紛を口実に尾張・伊勢守護職を奪っています。
このように氏族分裂と浮沈をくり返しながらも、その一流は、『奉公衆』となるなど、足利政権下でも、大きな権力をもちつづけます。
しかしながら、応仁の乱による室町幕府衰退に伴って、土岐氏もまたその力を失い。斎藤道三の国盗りにより天文二十一年(1552)滅亡しています。
土岐氏の伊予入部
土岐氏が、いつ伊予に来たのかについての明確な時期は分かりませんが、『土岐氏略譜』に、「土岐光行五男(光定)、承久の乱敗戦後に浅野隠世により土岐惣領となり、鎌倉に在勤していた。悪党讃岐十郎追補の功により、讃岐守、従五位下、伊予国浮穴郡の地頭補任、(中略)墓地は興源寺廃寺跡、(後略)」とあります。
また、『濃飛両国通史』に、「土岐光定伊予国卒、葬其地荏原村、建興源寺云々。」と記されています。
おそらく承久の乱において、後鳥羽上皇に味方した伊予の守護河野氏の所領であった浮穴郡が与えられたのではないでしょうか。
土岐氏の伊予地頭を裏付ける資料として、1472年に八代将軍足利義政が土岐深坂松寿丸の所領を安堵している史料があります。
当初は常駐していたようではありませんが、九代政頼の代に定住するようになったのではないかと、荏原在住の歴史研究家大森理氏は運営の『久谷の里山』で述べられています。
伊予土岐氏については、大森氏のサイトが詳しいのでリンクを貼っておきます。
<久谷の里山>https://kutani.web.fc2.com/nibari-jo/nibari-castle.htm#nyubu
そして、この中に土岐氏系図として、「土岐頼政」の名前がでてきます。
土岐頼政
そうなのです、同じ「源」の血統で、名前が同じ「頼政」であることから、後裔の人たちが、源氏として初めて従三位(じゅさんみ)にまで出世した誉れ高い「源頼政」と重ね合わせ、「赤蔵ヶ池の鵺伝説」を作り上げたのではないかというのが、山内譲先生(四国中世史研究会会員)をはじめ多くの歴史家の指摘するところとなっています。
浮穴史談会の創立者故宇都宮音吉氏は『浮穴史談』五号で「文明四(1472)年後土御門天皇の頃、土佐勢の侵入を防ぐため土岐氏一族が国境中津村の久主に陣屋を構え侵入の土州勢も散々戦ったらしく、その犠牲者の菩提を弔い冥福を祈る為に土岐頼政が建立したという大寂寺は、今も香煙を絶やさず存在する」(典拠不明)と述べています。
二箆(ふたつの)
あえて宇都宮氏の記事を論拠にさらに踏み込んでみると、赤蔵ヶ池のある二箆は同じ旧中津村にあり、古来から伊予と土佐を結ぶ土佐街道の要衝の地であることから、国境監視のために駐屯していた土岐氏の一派がやがて土着し、山上にある不気味な池と結びつけて、この地独自の「鵺伝説」を作り上げていったのではないでしょうか。
二箆の長崎というところには古井戸があり、そこは頼政の母が住んでいた長者屋敷跡だと言い伝えられています。
もしかすると、二箆から巣立っていった息子の出世を願って、赤蔵ヶ池に願掛けをしていた、そんな母親もいたのかもしれません。
そういえば高校の同級生に、「土岐」の名字の女の子がいたなと思い、電話帳で調べてみたところ、二箆周辺の集落に、「土岐」さんのお宅が数軒見つかりました。
そこで、二箆の土岐さんを尋ねたところ、残念ながらご主人は亡くなられていましたが、旧美川村で村会議員を長年勤められていたそうで、奥様がご主人が集めていた資料だと見せていただいた中に、「土岐氏」に関する物があり、当人も意識し興味を持たれていたのだと推察いたしました。
赤蔵ヶ池
久万高原町中心部から国道33号線を南下し、御三戸の交差点を過ぎた左手に、アーチ型の沢渡橋が見えてきます。それを渡って標識にしたがって20分ほど山道を進むと二箆集落、さらに10分ほど登ると赤蔵ヶ池に着きます。
標高900m、周囲500~600mの池で、決して小さくはない池ですが、周りの広葉樹の落葉が水中で腐食し堆積しているであろう風貌は、池というより沼の風情を漂わせています。
平安時代はおろか、何千年もの太古の昔からおそくらそのままの有りようで、ここにあったであろうこの池には、確かに鵺や龍の1匹くらいは潜んでいるだろうと思わせてくれます。
現在は、その容貌を既存しない程度に、遊歩道やトイレも整備されているので、森林浴をかねたピクニックにももってこいの場所です。
松山市内からでも車で90分ほどで来られます。ぜひ一度、ドライブがてら訪れてみてはいかがでしょうか。
久万高原町教育委員会の遠部さんによると、「赤蔵ヶ池は天気のよい昼間より、雨の日とか夕暮れ時がいいですよ。」と笑って話してくれました。
源頼政の鵺退治は本当にあった?
余談になりますが、『平家物語』には確かに誇張された記述はありますが、基本的に歴史的事実について書かれています。
にもかかわらずフィクションとしか思えない鵺退治の話が記載されているのはなぜでしょう。
これはあくまでも私の推測ですが、源頼政の鵺退治は本当にあったのではないでしょうか。
先述しましたように源頼政は従三位にまで出世しています。それはただ武辺一辺倒なだけでなく、即興ですぐれた歌を読むなど、文化人としても優れた教養の持ち主であったからに他なりません。
近衛天皇のご病気のことを聞いた頼政は、それは心の病にちがいないと、一計を案じ、鵺退治の大芝居をうったのです。
あらかじめ用意した猿の頭と蛇と虎猫の首なしの死骸を、夜陰にまぎれ井の早太に持たせ、頼政の鏑矢の音を合図に宮廷の庭に投げ捨て、すかさず切り割いたふりをして見せたのです。
『平家物語』原文には、「井の早太つっと寄り、落ちたところを取っておさえて、つづけさまに九度刀で割いた。」とあります。とどめを刺すのに切り刻む必要はありません。もともとバラバラだったから切り刻んだふりをしたのです。
また、鵺の死骸が流れ着いたとされる芦屋の浜には、鵺を祀った塚があるというのも、実際にその死骸が流れついたからではないでしょうか。
こうやって鵺退治の大芝居をうって、天皇の病の元を退治したというのが、実際の所ではないかと思うのですが‥‥。