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回想 第五章 185

第185回
 そういえば昨日のこの時間、ハエと話をしていたな。駅長は昨日ハエのいた天井を見上げながらぼんやりと思い出していた。どんなことを話したんだっけ?そもそもあのハエは何をしにここにやって来たのだ?象の話をしていたような気がする。しかし駅長にははっきりと思い出す事ができなかった。こんな風に何もかも忘れていってしまうのだろう。駅長は少し寂しくなった気がした。今日ハエは部屋にいないようだった。しかしだからといって窓を開けてハエを招き入れるのは億劫だった。ふと駅長のベッドから手の届く小さなテーブルにメモ用紙と鉛筆が見えた。こんなところに今まで鉛筆なんてあったかしら?駅長は不思議に思った。そして鉛筆を見ていると死ぬ前にやはり何か書き残したくなってきた。何を書こうかしら?
 そのとき扉が開いて、暑苦しい呼吸をしながら帽子が入ってきた。手には汚れた小冊子と束になった便箋を持っていた。
 「いよいよあと二日だね。厳密には一日と半分か。」帽子がふうふう苦しそうに呼吸をしながら話し出した。
 二日後が何を意味するのか分かったが、なぜ帽子がそのことを知っているのか駅長には不思議だった。
 「これ、読んどくといいよ。」こう言うと帽子は手に持った小冊子と紙の束を鉛筆の乗ったテーブルの上に置いた。
 これは何なのか、そしてなぜ読まなければならないのか駅長が尋ねると、帽子はいやらしい微笑を浮かべて答えた。
 「これは昨日詩人さんが掃除婦から受け取った手紙と『ある本』だよ。どうも時間をもてあましてるようだったからね。これを読むとひまつぶしになるでしょう。」
 この説明では納得のいかなかった駅長はさらにいろいろと尋ねようとしたが、帽子はくるりときびすを返すと、頭皮の蒸れた臭いを残して部屋からさっさと出ていった。しかし、納得はできなかったが、今しがた他界して棺桶に入れられた詩人に送られてきたという手紙は、駅長の好奇心を充分にかきたてた。うそつきが言うにはこの手紙を読んでから詩人の行動はおかしくなったそうだ。

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