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回想 第五章 174

第174回
 「まさか!」坊主が驚いて答えた。
 「いやいや、どうも本当らしい。帽子さんが今朝この人の部屋に入ったら、こんなことになってたらしいんだ。まだ息があってひくひく動いてたらしい。」
 「でもなんで帽子が詩人さんの部屋に入ったんだ?詩人さんはいつも自分で起きていたから誰も起こしにいかないはずなんだけどな。」
 「帽子さんは詩人さんの部屋から何か異変を感じたらしいよ。」うそつきは意味ありげに苦笑した。「彼女は特別なひとだからね。」
 「気味の悪い女だな。」坊主は憎々しげに言った。「詩人さんもこの世で最後に会ったのが帽子だなんて本当に気の毒なことだ。」
 「それにしてもどうもおかしくないかこれは?」うそつきが声をひそめてたずねた。
 「なにが?」
 「これが。」うそつきはあごで棺桶を指した。「神に仕えていた詩人さんがだよ、どうしてこんなことをすると思う?こういうことは、この人がいちばんいさめてたことじゃないのか?」
 「それにしてもどうしたんだ、そんなに興奮して?」坊主は近づきすぎたうそつきの顔を手で追い払いながら言った。「昨日にくらべてウソみたいに元気になってるじゃないか。」
 「今日はなんだかね、気分も体も軽いんですよ。」うそつきは悪びれもせずに説明した。
 「人の不幸で元気になるんだな。」坊主はうそつきに聞こえるように駅長に話した。「それとも体調についてもウソつくんだろうな。」
 「そんなことどうだっていいじゃないか。」うそつきが続けた。「それよりもこんなことがあっていいもんだろうか?ねえ、どう思います?ねえ?」
「詩人さんもいろいろと苦しんでいたからな。悩みを抱えていたんだろう。」
「もちろん悩んでたんだろう!」うそつきは愉快そうにまた顔を近づけながら、大切な内緒話を打ち明けるように話し出した。「それはわしも否定せんよ。人間なんだから誰だって悩むもんさ。なんだったらあの人は立場上人より悩まなければならない宿命にあったのかもしれん。でもね、あの人はこういうことをしてはぜったいにだめな人間のはずなんだ。そしてそれを自分でも充分に知っていたはずなんだ。でもどうしてだか最後の越えてはならない線を踏み越えてしまった。これは大変なことじゃないか?それこそ彼は、死に際しても他の者に模範となるべく行動しなければならなかったのに、反対に大きな実に大きな汚点を残していったんだから!昨日駅長さんにも話したけど、わしは十数年前に一度この人と会ったことがあったんだ(でもどうやらあまり好かれなかったみたいだけどね)。そのときもそしてそれから後もこの人のうわさはときおりわしの耳にまで届いてきてた。どれもこれもさすが神に仕える人間と思わせるような話ばかりだったよ。いろんな土地で逸話となって残ってるんだ。その中のいくつかは、そのうち時間とともにきらびやかな聖人君子の話として語り継がれることになるんだろうと思ってたよ。当時詩人さんの話を聞こうともしなかった人間も、時間がたてばもしかすると詩人さんのたくさんの説話を思い出して、信仰を芽生えさせたかもしれない。でもこんなことがあったと知れ渡れば、せっかくの機会をぜんぶだめにしてしまうだろう?だって信仰を持ったかもしれない人間を幻滅させてしまうんだからな。最後の最後にくじけてしまったんだから。詩人さんは生きてる間にひとりも信者を増やすことができなかったそうだけど、今回のこの事件で今までの努力を無駄にして、けっきょくやっぱり誰も説得させることができなくなるんだ。もしかすると彼の努力が最後の最後に実ってたかもしれなかったのに。」

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