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回想 第五章 189
第189回
翌朝駅長の目覚めはすこぶるよかった。起床のチャイムがなる少し前に、鳥の鳴き声とともに目が覚めた。寝床から見える窓の外は雲ひとつない晴天で、木蓮の木の枝が昨日よりも重い桃色の花を咲かせていた。チャイムのすぐ後に廊下に虫がいっせいに飛び立つような蛍光灯の点灯する音が響くと、スリッパの床を叩く音とドアを開ける音が聞こえてきた。
「駅長さん、おはよう。」帽子が部屋に入ってきて、いつもと同じように、面倒そうに尋ねた。「元気ですか?」
駅長もいつもと同じように返事をせずに、だまったまま外を見つめていた。帽子も駅長の返事を期待もしていない様子で、むっつりと駅長の横を通り過ぎると、窓を開いた。冷たいが清涼な風がなでるように部屋にすべりこんできた。
「起きれるかい?」そう言いながら帽子は、駅長を寝床から起こすためまた駅長の寝るベッドまで戻ってきた。
帽子が駅長の毛布を取ろうとかがんだ時、ふと手を止めてテーブルの上にある、昨夜駅長が書いた遺書を見ると、ちらりと駅長の顔を見てにやりと笑った。その笑いにどんな意味が込められているのか駅長にはわからなかった。
「書いたのかい?」帽子がまた唇をゆがめて笑いながら聞いてきた。
駅長は無言でメモ用紙に書いた自分の遺書をテーブルから取り上げると、丸めて手の中に握りしめた。
「それで、」帽子は駅長の毛布をめくりながら尋ねた。「あの手紙と本は読んでみてどうだった?ひまつぶしにはなっただろう?ヒ、ヒ。どうせあんたも触発されてなにか書きたくなったんだろう?」
着替えを手伝うため近づいてきた帽子からは、すえた臭いが発せられていたので駅長は顔をそむけた。そして顔をそむけながら、紙と鉛筆を置いていったのは帽子なのかどうか聞いてみた。
「私だよ。」帽子は答えた。「なにか書きたいことがあるだろうと思ってね。」
じゃあ今度から鉛筆けずりも置いておくように、と駅長は帽子に頼んだ。帽子はおもしろくもなさそうに鼻で笑っただけだった。
「じゃあこの手紙と本は返してもらうよ。」着替えの手伝いを終えた帽子は、テーブルの上においてあった掃除婦からの手紙と小冊子を取り上げた。「私が思うに、この手紙と本はけっこう影響力があると思うんだ。特にあんたみたいな死ぬ間際の人間にはね。そんなやつらにまた読ませてやるんだ。ヘ、へ。」
駅長は今晩影と一緒に帽子も来るのかどうか尋ねたが、帽子はそれには答えず、意味ありげに目配せをして部屋を出て行った。