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回想 第二章 72

第72回
 その夜、詩人は掃除婦の申し出を断って、まだ寒さの残る砂漠のような町外れの中を歩いて帰った。自分の部屋に戻ると詩人は、掃除婦の家族のために祈り、疲れ果てた体を木の板をひいただけの粗末な寝台に横たえた。詩人は一晩中、見えそうで見えない神の横顔を懸命に追いかける夢を見てすごした。その横顔は、あとほんの少しの努力で見えるような気がするのだが、そこから先はどうあがいても無駄だった。届かない自分の尻尾を追いかけているようなもどかしさがあった。
 次の日、夜明けから風が吹き始め、砂嵐が起こった。砂がにごった水のように町を覆い、潮のように流れる砂がすべての音をのみこんだ。町の建物は強風と砂にあおられてきしみ、砂はどんなに頑丈な壁の内側にまでもしみこんでいった。砂の浸透性はすさまじく、ほとんど水のように建物の中にいる人々の食べ物や服の内側にまで忍び入った。実際、年に数度起こるこの砂嵐で、砂に溺れて死ぬものもあった。こういう日、町の人々は息をひそめて家にこもり、必要にせまられる以外は、外出を避けた。翌朝風が止んで夜が明けると、人々は砂嵐が去ったあとの習慣として町角に集まり、どこの誰が行方不明になったとか、誰の家が嵐によって倒壊したかなど噂を伝え合った。詩人は、相談所の近くの人だかりで、詩人が先日訪れた町外れの並木道の先にある赤い屋根の家が、昨日の砂嵐で砂の川があふれ、家を丸ごとのみこんでしまったことを聞いた。今、近辺に住む人々が砂を掘って中に住む老人を助けるため救助活動を行なっているらしいが、砂の流れがきつく難航しているらしい。これを聞くと詩人はすぐ、この『神の家』に向かった。うそつきと掃除婦のことが心配になったのも確かだが、ついに会うことができなかったあの老人(または神)のことが気がかりだったのだ。もしかすると詩人は心のどこかで奇跡が起こる現場に立ち会うことができるかもしれない、と期待をよせていたのかもしれない。飲みこまれた砂の川の底から何か起こるかも知れない、と子供じみた期待があったのかもしれない。ちらちらと心のなかにあらわれる期待に詩人は気付かないふりをした。はやる気持を抑え、目的地に向かって歩いていると砂が混じっているかのように関節がきしんだ。
 目的地の並木道には、救助活動を行なっている人々がまだ忙しそうに動きまわっていた。並木道の先では、確かに赤い屋根の家がなくなっていた。人々は今は掘り起こすことをあきらめ、先日より勢いが強くなっている砂の川の流れの中に幾本かのサオを差し込んで、手応えを探っていた。しかし家らしき手応えはどこにサオを差し込んでみてもなかった。老人とともに家は、この黄色い砂の流れの中に消えてしまっていたのだ。
 「おそらくもう手遅れだろうな。気の毒に。」詩人の横にいた男がつぶやいた。
 「ここに住んでいた老人をご存知だったんですか?」詩人がたずねた。
 「ああ、古くからここに住んでてな。ゴミにまみれてきたないじいさんだったよ。家から一歩も出たところを見たことがない。」
 「いくつくらいの方だったんですか?」
 「何歳だか知らないが、うちの婆さんが子供の頃からこの家でゴミといっしょに暮らしてたらしい。そしてその頃から、どこから見つけてくるのか知らないが、どうにもならない貧乏人ばかり集めて家を掃除させてたそうだよ。」
 詩人は砂の川の周りに集まる人の中に、うそつきと掃除婦を探したが見当たらなかった。ある話によると、うそつきは今朝がた『神の家』がこつ然となくなったのを見ると、その場で自分の特異な経験を人々に伝える『神の伝道の旅』に出ることを決意し、その足で家族とともに幼い子を連れてどこかに行ってしまったらしい。掃除婦に関しては誰も何も知らなかった。
 そのまま詩人は夕刻まで野次馬に集まった人々とともに、『神の家』のあった場所に立ち、時とともに緊張感がゆるみ動作が緩慢になっていく救助活動を見守った。そして日が沈み救助活動をしていた人たちがいなくなると、掃除婦の家を訪ねて見る気になり行ってみたが、家の中は家財道具がすべて運び出されてあり、そこにはもう誰もいなかった。

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