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回想 第四章 163

第163回
 ここまでいっきにまくし立てると、影は自分のスピーチの効果をはかるように詩人の顔を時間をかけて眺めた。そしてまたよく通る声を押し出すように話し出した。
 「あなたはよく説教のなかで自己犠牲の精神の大切さを教えていましたね?でもこんな平和にどっぷりと浸かった生活のなかでいったいどんな自己犠牲がありうると考えているんです?たしかに自己犠牲自体は尊いものです。これこそ人間を至高のものへと育てる唯一の手段でしょう。でもこれがたかだか他人のために身代わりになって殴られてやったり、怒られてやったり、またなけなしの金をくれてやったりするくらいなら何の効果もみられません。本当の自己犠牲のための対価には命がなくてはならないんです。そしてこの自己犠牲ができるのは、平和時には迫害でもってしか迎えられない、人類に対して高い理想を描く気高い人間だけなのです。」
 影が話し終えるとしばらく沈黙がつづいた。外で降る雨の音が際立って聞こえてきた。充分に時間をおいてから詩人は用心深くいぶかりながら尋ねた。
 「脈絡はおかしかったですが、たしかにあなたが正論に近いことを話したことは認めます。あなたは今真実のかけらを話したのかもしれません。でもいったいどうしてあなたはそんなににやけながらこの話をするんです?いったいあなたは真剣なのですか?それともわたしをからかってるんですか?」
 「わたしの顔はそんなににやけてましたか?それは失礼しました。」影は必要以上に慇懃な態度であやまった。そして、クツクツクツと抑えるような忍び笑いが詩人に聞こえてきた。
 「何がおかしいんです?」詩人は不気味になって問いただした。
 「いや、失礼。気になさらないで下さい。でもあなたにはわたしの顔は見えないはずなのによくおわかりですね。」
 「たしかに顔は見えないですがでも話し振りで…。」
 「そうですか、話し方でわかりましたか。じゃあわたしの演説もたいしたことありませんね。」そしてまたクツクツクツと笑い出した。「でも詩人さん、あなたはたしか今のわたしの話には真実が含まれていると言いましたね?」
 「はい。」詩人はうつむきながら答えた。「…すべてとは言いませんが。」
 「それはうれしいですね!わたしも話したかいがあったというものです。たしかにわたしの話し振りには不真面目なところがあったかもしれませんが、わたしはいたって重大なテーマを選んで話したつもりなんです。そしてこれはたくさんの人たちに話してきた内容で、結構評判がよかったんですよ。」

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