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回想 第五章 190

第190回
 駅長は起き上がってみたが、昨日よりもよほど快調なようだった。そして手のひらに握っていた遺書をポケットに押し込むと、部屋を出て廊下の手すりを使わずに集会所へと移動した。そこではいままで毎朝詩人が立っていた台の上に坊主が立っていた。住人すべてが集まると坊主は台の上に立ちながら、お経を読むような調子で節をつけながら『寮生訓示四ヶ条』を暗唱した。

一つ、老いたるとも、心身の潔癖をつらぬかん
一つ、老いたるとも、礼節を守らん
一つ、老いたるとも、愛をもって行動の指針とす
一つ、老いたるとも、希望を持ち天寿を全うせん

 そして皆がいっせいに「おはようございます」と声を合わせてあいさつをすると、坊主の先導に従って、軽い体操運動を始めた。それからそれぞれ住人たちは食卓の席についた。坊主は駅長の横に腰を下ろすと、陽気に話しかけてきた。
 「どうだい、調子は?昨日よりもよさそうじゃないか。それにしてもえらいことになってな。詩人さんが死んだんで、皆に推薦されてこれから毎朝わしが朝礼に立つことになったんだ。わしよりもっと古参のやつらもいるんだが、みんなもうろくしてるんでな。」
 不思議と駅長には、ここ最近まったくなかった食欲があった。目の前に出されたいつもと同じパンも、口の中に入れると懐かしい甘みがあった。温かいお茶の渋みも口のなかにしみるように広がった。駅長は夢中ですべてを平らげた。そしてもうすっかり忘れていた満足をともなう満腹感を感じていた。明日にはもう死んでしまっているので、食べ過ぎる事による消化不良に悩まされる事もない。まわりを見回すと、相も変わらず自分の食器を哀れな声を出して泣きながら探しているものもいるし、湯飲みを持ち上げることができず、テーブルに口を近づけて震えながらすすっているものもいる。他にはパンが噛みちぎれないと不平をもらしているものもいるし、食欲がないとなんどもつぶやいて何も食べないでうつむいたきり動かないものもいる。
駅長はため息をついた。何のためのため息かはわからなかったが、無性にため息がつきたくなったのだった。昨日まではこの光景をみて、ただただ気の毒としか思えなかったのだが、今朝改めて見ているとうらやましいとも思えたのだった。駅長は、となりに座る老婆に地獄の恐ろしさを語る坊主を残して、先に自分の部屋へとまた手すりを使わないで戻った。

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