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回想 第三章 122
第122回
王はなつかしくむかしを思い返しながら口をつぐんだ。波に圧迫されて部屋が軽くきしむ音が聞こえてきた。王はまた小便入りの水で口をすすいだ。遠くの方でかすかに鳥の鳴き声が聞こえてきた。その声にバターは敏感に反応したが、すぐにそんなことがあったのも忘れておとなしく座って王の話に耳をかたむけた。
「おふくろが死んだのは、それから数年たってからだった。」王が静かにそしてひとつひとつ思い出すように話した。「結局はおふくろが一番きらいだった弱い人間に足元をすくわれたかたちになった。あれは忘れもせん、馬もへたばるくらい暑い日だった。水平線上でなにかきらきらと光るものが見えたのだ。はじめその光を遠くに見つけたときは、ひとりふたりと町のひまなやつらが海岸に集まってきて不思議そうにそれをながめてただけだったが、ちょっとすると近くの海で漁をしていた漁船が大急ぎでこっちに帰ってくるのが見えた。そいつは船のへさきに立ってこっちに向かって両手を振ったりとびはねたりして何か叫んでるんだ。やっと声が聞こえるところまで来ると、そいつは『逃げろ、逃げろ』と狂ったみたいに叫んでおった。わけを聞いてみると『とんでもなくでっかい船がこっちに向かってやってくる』って大騒ぎしておったんだ。そして町中にそのうわさが広がって焼けるような砂浜に大勢のやじうまが集まったときには、きらきら光る船の形が見分けられるくらいに近づいていたんだが、わしもおふくろと一緒にそれを宮殿から見ておった。その船は高慢な金持ちが貧乏人に自慢するかのようにゆっくりときらきら光りながら近づいてきた。そして見せびらかすようにわしらの前でくるくるくるくる時間をかけて旋回しだしおった。それにしてもとてつもなくバカでかい船だったな!ごてごてと見たこともない装飾がそこらじゅうにほどこしてあって、それが陽のひかりを浴びて宝石みたいに輝いておった。町で一番大きいわしらの宮殿よりも大きな船でな、しばらくすると浅瀬に乗り上げないように用心しながらぎりぎりまで岸に近づいて宮殿のすぐ目の前でイカリを下ろしはじめた。町中『見たいけどこわいし、こわいけど見たい』という好奇心と恐怖で大混乱になってたし、宮殿の中でも大臣たちが右往左往しておったけど、わしとおふくろだけは冷静を失わんかった。おふくろは兵の配備だけ指示すると、じっと船をにらんで身動きもしなかった。海岸沿いに兵隊の配置が完了したとき、その船から五、六人乗せただけの小さな船が下ろされて、こっちに向かって漕いできた。そして兵隊に囲まれながらそいつらがおふくろの前につれてこられてきた。そいつらはみんな乗ってきた船とはまったく正反対の質素な身なりをしてたんだが、先頭に立って出てきたやつだけが、濃紺のマントを首に巻いておって、細くて長いひげを口の両端からとあごの先から伸ばし、頭には真っ赤な円錐の帽子をかぶっとった。そしてそいつはおふくろの前でうやうやしく頭を下げてみずからを『団長』と名乗り、『この国でわれわれの宗教を布教させる許可がほしい。そしてその目的のためにはるばる一年の航海を経てこの国にやって来た』と言って横にいた男に持たせていた大きな箱のふたを開けながら差し出した。なかには赤や黄色や緑の宝石がつまっていた。おふくろはそれには目もくれず、まずそのやつらの宗教というのはいったいどんなものなのか団長に尋ねた。すると団長はていねいに『死後のさまよう魂をすくうための宗教』と説いた。そこには特別目新しいものは見当たらなかった。やつによると、『生前の行いを正し、われわれの奉る神に祈り、安らぎに満ちた世界へと魂を導く』というものだった。おふくろはそこで、たいした害はないとふんだのだろう、団長に向かって、やつらが布教している間、やつらが乗ってきた船に立ち入らせ、やつらの持っている造船と操船の技術をわしらに教える、という交換条件で布教を許す、と伝えた。それに対して団長は、もったいぶった様子で『われわれには何も隠すものはない。あなた方に伝えられるものはすべてお伝えしよう』と承諾した。それからはわしらの国の人間にとって、やつらは驚きの連続だった。船のなかには布教活動をするための人間がまだ百人くらいいたんだが、みんな一年以上の長い航海を経てきたはずなのに、誰ひとりやつれた人間がおらんのだ。みんな陸の人間より健康そうで、しかもふつうの船乗りのように荒くれてもおらず宮廷暮らしの貴族のように色白でしなしなしておった。なぜならやつらの船では野菜を育てたり、家畜を飼ったりできるようになってあってな、それにどういうわけなのかやつらの船は、甲板に出なくても船のなかから自由に操船できるように作られてあったんだ。とにかくなにもかもが目新しくて豪華だった。案内してくれたやつが『われわれの国ではいま、空を飛ぶ飛行機というものを開発中で、完成のめどはだいたい立っている。完成すればわれわれの国からこの国までおよそ航海の百分の一くらいの速さで到着できるでしょう』とかぬかしてやがった。へ、へ。本当かどうかわからんかったが、目の前でものすごい船を見せられたもんだから説得力はあった(もっともあれから何十年もたってるが、いまだに空を飛んでる飛行機とやらは見たこともないがな)。そしてわしらがやつらの船に熱中してる間に、やつらはクモの子を散らすように町の中にまぎれこんでいったんだが、そのときはまさかやつらと一緒にわしの国に病原菌をいっしょに持ち込んでるなんて考えもしなかった。じっさいわしらは夢中になりすぎていたんだ。自分の国のことを忘れるくらいにな。おそらくそれもやつらのねらいだったんだろう。わが国の宮殿にいた少しでも頭のいいやつは毎日みんな船に乗り込んで夢中になっていたもんだから、町のなかで起こっていたことにまったく気がつかなかったんだ。いったい何が起こっていたと思う、バター?まったくおそろしいことさ!いままで考えたこともないようなことがじわりじわりと民衆の間に広まっておったのさ。はじめにその兆候があったのは、やつらが来てからひと月ほどたってからだったかな。町の市場の真ん中で、台の上に乗った男がふたり肩をくみあって大声で演説をはじめおったんだ。すぐに取り押さえられて、集まっていたやつらも解散させられたんだが、真昼間にしかも市場の真ん中でこんなことが起こったのは初めてのことだった!この国では聞いたこともないことだった。でも宮殿にいたやつらは、おふくろもふくめて、まだ船に夢中だったからあまり気にとめなかった。でももうひと月もするとまた同じようなことが起こった。そして今度は演台に五人も肩をくんで立っててしかもその内のひとりは女だったんだ。これはもう普段ならとんでもないことだったんだが、まだわしらは団長が乗ってきた船に没頭しておったんだ。町でそんな奇妙なことが起こっても、冬に狂い咲きした花でもみるようなかんじで、そこに何も深刻な問題を見出せなかった。うかつだったさ!もう少し早く手を打っておれば、この時点ではまだなんとかなったかもしれなかったのに。でもいまさらそんなことを言ってもはじまらん。時間とともにその病菌は根深く民衆のあいだに根ざしていったんだ。さらに何度もこの不可解な演説が繰り返され、そして繰り返されるたびにその演説をするやつらの数が増えていったし、それに反応する聴衆ももう見過ごせないくらいに大きくふくれ上がっていった。しばらくたって大臣たちが町で何が起こっているのかさとったときにはもう取り返しのつかないことになっていた。いったいこの演説でこの町のさもしい連中は何を訴えていたと思う?平等だよ!みんなで肩くんでこの国で平等を訴えておったんだ!そしてこの考えはもともと団長の持ってきた教義によって広まってたんだ。あの船に乗ってきたやつらはこの国で平等を教えておったんだよ!『神の前では人間はすべて例外なく平等だ。人間に優劣はなく、他を抜きん出ようとする者はその分だけ神に罰せられることになるだろう。故に人間を支配することができるのは神のみである。』わしらの鼻の下でやつらはこんな教えをひろめてやがったんだ。わしらが船に熱中してるあいだに、やつらはこの国を煽動してたのだ。この国はむかしから常にちからの強いやつが弱いやつらを従えてきたんだが、やつらは弱いやつらを集めて『強いやつは本当は強くない、強いのは神だけだ』って吹聴してまわったんだ。まったくの茶番だ!やつらはたとえば道でくたばりそうになって弱ってる婆さんをみんなに見せて、『見てください、このかよわい婆さんを!見てください、この苦しげに刻まれた顔のしわを!何の因果でこの婆さんはこんなに苦しまなければならないのか?不当にまわりの人間からさげすまれ、見捨てられているのか?あなたたちにたずねるが、この婆さんはわれわれよりも劣っているとお思いですか?この人生の荒波を乗り越えてきて、人生の終局を迎えている婆さんはもっとましな、せめて普通の人間のように威厳を持って死んでいくことはかなわないことなのでしょうか?』っていうぐあいさ。『あの宮殿でぬくぬくと暮らしているあの人間たちとこの婆さんにどんな差があるのでしょうか?』こんな説教を繰り返しているうちに、町のバカ連中が真似をしだしたんだ。でもこういう考えは毒さ、とても体に悪い毒なんだ。そしていちど中に入るともう二度と取りのぞくことのできない猛毒なんだよ。弱いやつらは勘違いしてしまった。強弱のない世の中ができると思い込んでしまった。強いやつらに、強くならずに卑屈になって生きなければ罪悪だと教えてしまった。でも他を従えるために生まれた者をのぞいて、どうやって従うためだけに生まれたようなやつらが世の中を動かせる?こんなのは欲に目がくらんだだけさ。おとなしく暮らしてりゃよかったのに、妙な考えを吹き込まれたせいでできもしない踊りを踊らされてしまった。そしてわしらの存在を、ちからで押さえつけるわしらを追い出そうとしはじめた。おふくろは地団駄ふんで口惜しがっておったよ。団長を捕まえてその首をはねさせようとしたんだが、やつらはそれを予測してたかのようにそうそうと船に乗って逃げていきやがった。しかたなしにおふくろは次に急いでこの短期間のあいだにはびこってしまった宗教を弾圧しにかかり、『この宗教に従うもの、また平等を叫ぶものはすべて弁明の余地なく死刑』と触れさせた。でももう手遅れだった。この宗教はすでに宮殿にまで伝染していて、団長の息のかかったやつらが国を牛耳ってておふくろの言うことをもうだれも聞こうとしなかった。おふくろは気が狂ったみたいになって、無理やりにでも弾圧を断行しようとしたんだが、まわりの者に阻まれてある日寝てるあいだにあっけなく殺されてしまった。ほんとうにもうまるでゴミでも捨てるみたいな気軽さで、あっさりと宮殿から抹殺されてしまった。おそらく団長の計画では、おふくろを殺してまたこの国に舞い戻ってくる予定だったんだろう。おふくろの死を聞かされたときは、わしはくやしくて、くやしくてそのとき初めて泣いたんだ。なによりもくやしかったのが、このわしのおふくろが、なんでもないバカな連中に殺されたことだった。でもわしは必ずかたきを打つと誓った。わしはまだ幼かったんだが、ひとりでも信用できる人間を見つけて、あらゆる手段を使ってまず宮殿の中から団長の息のかかっていそうなやつらをすべて殺していった。そして国の中もおふくろが最後に出したお触れのとおり、この宗教にたずさわる者たちすべてを殺してやった。団長がこの国に帰ってきても、もうどこにも根をはる隙間も与えないようにきれいさっぱりと。そしてしばらくするともう平等なんて口にする者はいなくなった。わかるか?もともとが根の弱いやつらさ。すこしちからを見せられるとやつらはもうみんななびくようにわしに従いだすんだよ。このときに確信したんだ。こいつらには決して上に立つことはできないと。こいつらには国を任せることはできない。そう!やつらはどこまでも意気地のない人間なんだ。ハ、ハ。決して夢を見させないことさ。それさえ気をつければ、それさえ気をつけていればよかったんだが…、わしは油断してたんだ。まったくうかつだった。まだ根を絶やすことができてなかったんだ!まだあの宗教の生き残りがいたんだ!猛毒は治療できていなかった。まさか何十年もたってからあのババアが出てくるとは思わなかった。あのババアはあの男をそそのかして、気がついたらわしを蹴落としてわしをこんな目に…。」
王はここでくやしそうに宙を見つめて口を閉じた。バターもだまって天井を見上げた。
「わしはまだあきらめておらん。」王は宙に握りこぶしを作って言った。「わしにはまだやりのこしたことがあるんだ。こんなところで死んでたまるか!わしはどうやってもまたあの国に戻ってみせる。そしてそのときは必ずわしとやつらの違いを見せつけてやるんだ。わしがどういう種類の人間かを思い知らせてやるんだ。そして自分がどれだけ情けなくてみっともない人間なのかも気づかせてやる。ハ、ハ、ハ…」