回想 第四章 154
第154回
知らぬ間に眠っていたようだった。目を覚ますともう廊下の外は静まり返っていた。どれくらい眠ったのか見当がつかなかった。部屋の電気はいつの間にか消されていて、暗かった。窓の外はまだ雨が降っていた。樋からあふれた雨水が大粒の水滴を落としてぽたぽたと地面をたたいているのが聞こえてきた。詩人は言いようのない不安におそわれた。部屋の隅で誰かが動いていた。詩人の鼓動が早くなった。大きな黒い塊が部屋の隅でふくれていく。詩人がものも言わずに見入っているとやがてそれは太くよく通る声で話し始めた。
「こんばんは。」
煙突の向こう側から話し掛けてくるようなその声の響きは、今日帽子が詩人に会いに来ると言っていた影のものにちがいなかった。掃除婦が言っていたように陰は大きな白い二つの手に長い杖をついていた。
「こんばんは。」影は繰り返した。「はじめまして、詩人さん。もちろんわたしの事はおそらく帽子さんの方から聞いているでしょうね?いや、信じてくれないかもしれませんが、ずっとお会いしたかったんですよ!あなたのことはいろいろと聞いていたものですから。」
「『影』ですね?」詩人は身構えながら尋ねた。
「…まあそれでもいいでしょう。」しばらく黙っていた影は、くぐもった笑い声をたてて答えた。「それにしてもやっと会うことができましたね。この日をずっと待ってたんですよ。」
詩人は何も言わずに影を見つめていた。詩人を不安に落としいれていたものがついに目の前に現れたのである。聞き出したいことはたくさんあったのだが、知りたいことが出口で互いに溶け合って何を聞きたいのかわからなくなった。
「どうしたんです?」影はうれしそうに尋ねた。「わたしが来ることを知っていたくせに、ずいぶん驚いてるじゃないですか。」
「どうして今日この日を選んだんです?」詩人はもっと大切な質問があったはずだと歯がゆい思いをしながら、上ずった声でさえぎった。「どうしてもっと前の日じゃいけなかったんです?たとえば掃除婦さんに会う前にわたしに会いにくればよかったんだ。わたしのことが嫌いなんでしょう?どうしてもっと前に会いにこなかったんです?」
「フ、フ。えらく興奮なさってますね?知ってますよ。昨日帽子さんからわたしが来ることを知らされてから、ずっとわたしに会うのが怖かったんでしょう?隠さなくたってわかりますよ!落ちつきなくうろうろしてたじゃないですか!へ、へ。あれはなんだったんです?施設の裏の森に入って大地に泣きながら接吻してたのは、あれはなんだったんです?」
「いったい何をしにきたんです?」
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