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回想 第五章 176

第176回
 駅長は重そうに手をあげて坊主を呼び寄せると、部屋まで連れて帰ってほしい、と小声でたのんだ。顔には血の気がなく、唇は紫色になって小刻みにふるえていた。詩人の顔に永遠に刻まれてしまった表情を見ていたら、駅長はなんともいえない恐怖にとらわれたのだった。詩人はまるで、いちばん苦しんでいるときに魂を引き抜かれ、そのまま固められてしまったかのようだった。駅長には詩人が、苦しみつづける運命を背負わされているように見えたのだ。駅長には、詩人の突き出したあごから、かすかだがまだしぼり出されてくる苦しみの声が聞こえてくるようだったのだ。駅長の両わきから冷たい汗が流れ落ちた。もうずっと忘れていたことだが、駅長は幼いころとつぜん何のきっかけもなくやって来た死に対する恐怖を思い出していた。それは幼い駅長が夜中両親の間ではさまれるように寝ていたとき、とつぜんおそってきた感情だった。それまで駅長は生き物を殺すことに対して何も感じることがなかった。例えば駅長はよく、家に仕掛けられたネズミ捕りに捕らえられたネズミを、水をはったたらいに仕掛けごと沈めて、そのネズミが死ぬまで苦しむ様をながめたりしたことがあった。またその仕掛けに見たこともない大きなネコが捕らえられたときも、暴れるそのネコを棒で動かなくなるまで叩きつづけたこともあった。そしてその夜とつぜんそれらの行為に対する恐怖がわき起こってきたのだった。それは悪事や罪とは関係なく、自分の思いつきで命を奪えることに対する恐怖だった。ネズミやネコはべつに駅長に対して不快感をもよおしたわけでもなかった。それでも駅長はそれらの生物を、虫けらを扱うように殺した。パンをちぎって食べるような気軽さで命を奪えることが怖かったのだ。
 十数年を経て今駅長は、反対に命をいつ失ってもおかしくない立場になってあらためてそれを感じていた。駅長が良心に呵責を感じることなくネズミを溺死させたように、誰かが駅長の命を無造作に奪いに来るかもしれない。死に際して、華やかなファンファーレでもって見送られるのではなく、こちらの意向は気にされず、ゴミでも捨てるような感じで自分の命が扱われてしまうかもしれないのがいまさらのように怖かったのだ。今まで自分で勝手に想像してきたように、命はべつにすべての人から敬われているわけではなさそう気がしてきたのだ。他人の気まぐれでなくなってしまう命もこの世にはたくさんあるのだ。
 駅長が坊主の肩につかまって部屋まで戻っていく最中も、うそつきはうしろからついて来て、話しつづけていた。

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