回想 第四章 140
第140回
わたしはめまいが起こりそうになりました。影は部屋の隅に立ったままなのにどうやってそんなことができるのでしょう?わたしが混乱していると影がそれを見透かしたように説明しました。。
「そんなことはわたしにとって簡単なことなんです。なんならここで石をパンに変えることもできますよ。」
「でも何のためにわたしに胎児を?」
「あなたにもっと苦労してほしいからです。あなたはもっとこれから苦労していかなければならない人間だからです。どんなに苦しんでも報われない、という人間になってもらいたいからです。苦しむべき人間の代表なのです!そうすればわたしのさっきの話も信じてもらえるようになるでしょう?これからはその胎児が錨となってあなたが詩人さんの話に耳を傾けようと迷いだしても、しっかりとあなたを安全な場所につないでおいてくれるはずです。詩人さんのどんな甘い言葉に惑わされても、あなたが妊娠しているという事実が、その罠から救ってくれることでしょう。一日もはやく詩人さんの言葉は忘れなさい。そして報われる希望を持たずに苦しみぬいて生きていくのです。」
「でもどうして、なんのために苦しまなければならないんです?」
「別に意味なんてないんです。そこに意味を求めるから話がややこしくなる。あなたが率先して、まわりの人間に『苦しんでも報われない』、ということを示してやればいいんです。」
「どうしてわたしが…?」
「じれったい人ですね。そんなに被害者ぶらなくてもいいでしょう?わたしは知ってるんですよ。あなたがひそかに、神にたよらず強く生きていきたい、と願っていることを。強い人間になりたいんでしょう?」
「…『強い人間になる』とは神にたよらないことなんですか?」
「いろいろな解釈もありうるでしょう。でも大きくは間違っていないと思いますよ。例えるなら、痩せた土地に生えるたくましい木と、人工的に育てられたふやけたような植物のちがいとも言えますね。」
「わたしは強い人間になれるのでしょうか?」
「それはあなたしだいです。でもとにかくきっかけはあるんです。その子供とともに苦労すればいいわけでしょう?」
もしこの妊娠がほんとうなら(わたしはまだもしかしたらこのすべてが夢の出来事かもしれない、と思っていました)、たしかに子供を授かって喜ぶにはわたしは歳をとりすぎていました。うれしさはみじんもなく、ただただ気が滅入ってくるばかりでした。老年になってこんな重荷を背負わされるということは、わたしの人生は呪われていると思うほかありませんでした。なんのために、体力も衰えていつ死んでしまうかわからないわたしが、愛の喜びもなく、見ず知らずの胎児を押し付けられなくてはならないのでしょう?ゆっくりとせめて平和に死なせてもらえないものなのか、とやり場のない怒りと同時に、しょせんわたしの人生は苦しみから逃れられないというあきらめの脱力感も感じました。
「そう、その調子です。その調子で苦しみ悩んでください。苦しむためにあなたは生きているのですから。ぜひみなの模範となってください。ああ、それからこの人を紹介しておきましょう。」
どこからあらわれたのか、影の横には帽子をかぶった大きな女の人が立っていました。