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素晴らしい人と、曇り空と、その下の自分を。

何か好きなことを、
見つけて、
それを極める人になりたい。
とか、

好きなことを、
評価なんか気にせず、
ただひたすら、追求する人になりたい。
だとか、

思ってきたけれど、

好きなことはあるし、
楽しみはあるけれど、

僕は、何度も、何かやりたいとだけ思って、何度も何度も、探してきた。

答えは、もう、とうに、
出てるのだから、
それが、自分の好きなことと受け入れて、先へ進めばいいのだ。

だけど、
何度も、0地点か、マイナスか、
に、戻ろうとするのは、
一体全体、何なんだろう?

自分は何を、本当はしたい?

それは、恐らく、こうなんだ。

素晴らしい人になれたら、

素晴らしさという価値を、
自他共に、
認められるなら、
私は、この世界にいて、
それを安心して、抱きしめながら、
生きていける……という幻想。

幻想の裏には、
存在価値の不安があるだけ。

愛するのならば、
この世界は、
愛して返してくれる。

だけど、人は愛してるといいながらも、幻想の方。

僕が受け入れるべきは、

何もなくても、
素晴らしさは、
人が認めようが、
自分が認められまいが、
そもそもあった、
という存在価値の方。

存在証明を探してきたけど、
好きなことを探してきたけど、

それは、とっくにあるという答えは、
旅に出なくても、
この胸の奥に、あったっていい。

探すんじゃなくて、
ただ気づけばよかったのだ。

例えば、
自分が気に入らなくても、
誰かが、ふと誉めてくれたのを、
素直に。

なのに、
まあ、それこそ、
いやいやこうじゃないんだ、
まだまだ、気に入らないからと、
気難しい職人になってしまったから、

僕の費やした、これまでの結果として、

そんな気難しい、幻想の中の自分へ、届く宛のない、架け橋を探す人になっている訳だ。

自分の素晴らしさは、幻想。

自分が、そもそも素晴らしかった。
何がなくても、
評価なんかなくても、
例えば、それを無視して、
どこまでも追い続けても、

答えは、変わらないまま。

えっ!!
このままで、素晴らしかったんですか?

全然、そんな気がしないんですけど……。

と、驚いても、
わからなくても、もってる。

僕が、路頭に迷った毎日は、
neverエンディングstoryにも、できるし、
ここで、periodも、打てる。

1つ、わかるのは、
賢明な判断というのは、

自分には、選択肢がないこと。

それは、いつも決まっていて、
諦めて、「あ、はい……。」としか、
言えない。

そして、
素晴らしい自分を探すより、
そもそも自分は素晴らしいとして、
自分を変えるのではなく、
人生を好きなように変えていくこと、
そっちの方が、
賢明なんだと、

僕は、あの素晴らしい人達になろうと、追いつこうとするのではなく、
ただ、yesと呟いて、
自由=人生を、
もっと気儘に、やったらいい。

意地になって、凝り固まった肩の力を抜いてみたらいい。

何かを愛してみたらいい。

この世界の何かを。

それももうもっている事に、
ただ、気づくだけ。

肯定する者でしか、
肯定の力は、
やってこない。

中途半端な曇天の空が、
嫌いだった。

自分のようで、
カラッと晴れるか、
いっそのこと、
泣きたい時に泣けない僕の代わりに、
大雨になって、
雷鳴が轟くのが、好きだった。

曇り空の下を、
生きてみてみよう。

新しい自分ではなく、

いつも今ここにいる自分こそが、新しい自分なのだから、
今は、曇り空の下を、
歩こう。

答えもなく、答えがあるもなく、答えがないもない。

肯定もなく、否定もなく、
ただ、この曇天模様の中にいる私を、
この世界にたった1人の私として。

おわり。

生き延びるために、 自分の生きる力にするために、 遣わせていただきます。